私たちはどうやって食っていくのか

資本主義の分析

労働による得るもの。

今日はキムチ鍋を1000倍くらい辛くして食べようと思っている。
唐辛子をたくさん買おうと思う。
豚肉は200gで良いだろうか。
キムチは1パック入れる。
キャベツも入れたいが、煮すぎるとおいしくないから、
最後にさっと入れようと思っている。

私はおそらく1,500円程度をスーパーに支払うことになるだろう。

さて、このようなお買い物ができるのは、
もちろん1,500円を所持しているからである。
さらに、1,500円がどこから来たかと言うと、
私が勤め人として毎日労働していることによる。
労働により給与を得て、給与の一部から1,500円を支払っているのである。

となれば即ち、
労働力と食料を交換しているということだ。
スーパーに行って、私が労働してその対価として食品を手に入れることも、
交渉によっては可能かもしれないが、
原則不可である。
カネは価値を媒介しているに過ぎないが、
この「価値を媒介」するという機能が極めて有用である。

しかし、私たちはカネの機能があまりに素晴らしいために、
カネ、それ自体に価値を感じてしまう。
だが、本当に重要なことは、私達が労働によって給与というカネを得ているということなのだ。

労働無くしてカネは生じない。

繰り返すがカネ、それ自体には何の価値もない。
無人島で遭難したらよくわかる。
食料が欲しい、火を起こしたい、夜具が欲しい、家が欲しい…。
1人で無人島にいたら、カネがあってもどうしようもないのである。

そして最も重要なことは、
カネを作る権利は国家によって独占されていて、
国家は「ノーコスト」でこのカネを産み出すことが可能だということだ。
理論的には国家はカネを無限に供給することが可能だ。
1万円は15円程度で作ることができる。
日銀が印刷すればいいだけの話である。
まあ、MMT的な話は今回の主題ではないのでこの辺で終わる。

カネを得るためにはどうしたらいいのだろうか?

労働によってその対価としてカネを得るという行為をしていると、
カネがどうやったら手に入るかが分かりにくい。

部分的なことしかしていないから、
〇時間働いていくら。
という発想に陥ってしまうのだ。
毎月〇円貰える。
という構図に脳が押し込まれてしまうのだ。

労働力提供への対価という発想から一回自由になる必要がある。

シンプルに考えると良い。

カネが存在しない社会ならどうだろうか?

私が農家だとしたら、
米を作っている。
米を作るのは得意で、
100年は食べられるだけの量がある。

しかし、私は手先が不器用なので、
家を作ることができない。
そこで私は村で1人しかいない大工さんと交渉して、
米を払うから家を作って欲しいと頼むだろう。
10年食える米を渡すから、家を作って欲しいと言う交渉である。

しかし!
大工さんは農業もやっていて米は要らんと言う。
米は要らんけど、金づちとのこぎりを作るための鉄が欲しいというかも知れない。
私は鉄の生産者を探さねばならない。
そしてその鉄の生産者は米が必要な人でなければ困る。
私は米しか持っていないのだ…。

これ以上言わずとも、
ここまで来たらカネが必要になる理由は分かるだろう。
米を売ってカネにして、カネを払って家を作ってもらうことができるからだ。

こうしてあらゆる価値がカネという尺度を基準にして、
相場(マーケットプライス)が産まれるのである。
豊作になったら米は安くなるし、大工が増えすぎたら、
家は安くなるって話。

ここでスタートラインに戻る必要がある。

私の動機である。
私は家が欲しかった。
家を作ってほしかったのだ。

カネの前に厳然と存在しているのは、
〇〇が欲しい!
という「需要」なのである。

つまり誰かが何かを欲している!
これに応える商品、サービスを提供するという関係がまず存在するのである。

カネはそれを媒介しているに過ぎない。
カネを得るということは、

「誰かの役にたつ」

これでしかないのだ。

労働者であってもそうだ。
資本家、経営者が、
「あーどっかに使えるヤツいねーかなー。人が足りねーよ」
という欲求に応える。
「ハイ!働きます!」
と、需要に応えて、労働力を供給しているのだ。

カネが欲しかったら、誰かの役にたつことだ。

つまり、商品もって資本主義に勝利したいと思ったら、
誰かの役に立ちたい!
という痛烈な動機が必要になる。
(但し、資本主義のメカニズムでは労働力販売業という役に立ちたい気持ちは不利である。)

この観点で生活をして見れば、
商売のタネというものはそこら中に転がっている。

ウマイものを食べたい人。
楽しい経験をしたい人。
カネ儲けのノウハウが欲しい人。
ダイエットに成功したい人。

これらの人に商品(サービスを含む)を提供すること。
これしかないのである。

無論、宝くじ、株取引、FX、仮想通貨でもうまくいけばカネが増える。
しかし、これらの行為には最も重要な
「誰かの役に立つ」
という要素が全く存在していないのだ。
私達の界隈が、『仮想通貨をやるヤツはクズ』だ。
というのはここに通じている。
仮想通貨をやりたいという人の役に立っている。
と言って仮想通貨の必勝法などを売っている輩もいるが、
この人の役に立っているというのは詭弁に過ぎない。

売春婦の方が社会に貢献していると私は思う。

不動産投資はどうかと言えば、
これは大家業である。
貸家業である。

結局ポジショントークで終わった感じがしないでもないが、
私は実業を奨励する。
実業とは人様のお役に立つことである。

人の役に立つ商売をして、価値を媒介するお金をありがたく頂戴しようではないか。

をはり