2026年1月26日(日)

日々雑感

何もしない週末が続く。
外出もしなければ、外食もしない。
ひたすら家にこもる。

別に命を狙われているわけでもないのに、
俺はなぜ何もせずじっと引きこもっているのか?
と、自問自答してしまった。

やりたいことは結構あって、
聖丁のリフォーム会にも行ってみたい(発注してみたい)。
とか、
房総方面の移住先を下調べしたいとか。

勤め人卒業を視野に入れつつ、
実施すべきこともある。
とは言え、息子らは今の学区内の中学までは出るだろうから、
今の家は少なくともあと3年は維持する必要があろう。

部屋数が多いので受験勉強まで、
となると、残り6年。
私も53歳になる。

そもそも徳川家康公は
1590年、北条氏を滅ぼした後の関東の田舎に追いやられた。
断ったら当然合戦だ。
秀吉の踏み絵を踏まされたのだ。
この時、神君家康公は御年48歳(今なら46歳か?)である。
手強い秀吉が没するまでここから10年耐えたのである。

18歳にして主君今川義元が討たれ
40歳にして支配者織田信長が討たれた
58歳で秀吉が死ぬまで、ひたすら忍従であった

まさに私も家康公の心境である。
始まりは三河の小豪族(岩手の兼業農家の次男坊)
武田信玄という強大な敵と戦いながら、三河、遠江、駿河、さらに甲斐、南信濃
という巨大な領国を支配するも、秀吉の政治力に敗北した。

私も不肖ながらクダラナイ勤め人として資本家への成り上がりを目指して、
勤め人収入+大家収入では日銀総裁を超える収入を稼ぐに至った。
しかし、私も40代後半にして、いよいよ勤め人としては、
リストラ候補となり、関東移封ではないが、
同世代や年下世代が新役員候補として枢密会議をしている外側で、
SATさんは社員として無理ですよ。
と、天才上司君に失礼なことを言われたのだが、
天才上司君が大型案件をコカす。
さらに1年延長しても終結できないという状況を見て、さすがにズッコケた。

俺は何を見せられているんだ????
俺はなんてヤツからの指示を受けて命を削って労働しているんだろうか????

実にあほらしくなったのである。
もうここまで来ると怒る気力も失せたという話である。

まあとにかく、神君家康公もまだ48歳にして、
天下の政治の中枢から外されて、それでも腐ることなく、江戸の開発に着手したのである。
それも豊臣政権の下で。だ。
いわんや、私風情が、勤め人で多少腹が立つことがあったからと言って、
この年収をぶん投げて、経営者同士の修羅の世界、
資本主義ガチ勢どもにタイマンのケンカを売りに行ってもいいわけがない。

恐らく家康公は秀吉に別の戦いを仕掛けたのもこの時期だろう。
いや、小牧・長久手の戦いから、秀吉の妹を嫁に貰うまでの期間か。
私には分かる。
家康公の気持ちが分かる。

家康公が仕掛けたケンカは、持久戦、なんと、寿命勝負である。
寿命勝負と子孫繁栄勝負だと私は思うんだ。
その証拠に11人の息子、5人の娘を得ているが、
5人目までは40歳、50歳以降から子作りを再開して、そこから11人作っている。
1583年から1592年までは子供が産まれていないが、なんと50歳から一気に11人作っているのだ。
また、家康公の薬好きは有名で、自分で調合するほどの腕前だったと言う。
もはや説明するまでもない。
状況証拠から明らかである。

家康公は秀吉という天才を前に、戦い方を変えた。
小牧・長久手では実質的に戦争で勝利しているが、その手段を捨てた。
なんと、まさかの、健康寿命デスマッチである。
さらに秀吉は譜代の家臣が極端に少ないところを見抜いて、
世代闘争にも持ち込んだ。
次世代の数、数から生じる質の勝負の保険も掛けている。

家康公が健康寿命デスマッチを仕掛けているとは知らない秀吉は、
朝鮮まで侵攻したり、千利休や秀次を殺したり、心身共にキツイことばかりしている。
案の定、61歳で没した。
まあ当時としては普通の年齢だが、家康公がここからさらに15年生きて、
関ケ原の合戦で天下を取り、大阪夏の陣で豊臣を滅亡させたことを考えると
家康公の戦略は見事にヒットしたと言っていい。

偶然と見るのは素人である。
家康公は意図的にこの勝負を仕掛けに行っている。
家康公は元来我慢強いタイプではない。
勇猛果敢、猪突猛進タイプの性格である。
武田信玄に鍛えられて、重厚な戦が出来るようになっただけだ。

私も口やかましく、すぐにカッとなるタイプだが、
最近になって、やっとのこと、自制が効くようになってきた。

雑談のつもりが、長くなった。

要するに、私はまだまだ我慢が足りないって話だ。

尾張