1人でも寂しくないのが大人である。

落とし穴

多数で群れたい心理

人間という動物は非常に弱い。
人間より強い動物は地球上に多く存在する。
それでもなお、人間が地球を思い通りに支配できるのは、
組織力にあると言っても過言ではない。

特に人間は同種族同士で凄惨な殺し合いをする動物でもあり、
1人でいることは死と直結する危険な行為でもある。

その意味で、他人から認められたいという心理、
即ち承認欲求はまさに本能から生じる心理状態と言える。

特に大家として経済的自由を確立した人でも、
大家仲間と群れて酒を飲んでみたり、
大家という立派な稼業を後ろめたく感じて他の商売に手を出してみたりする。
功成り、名を遂げてもなお、他者の輪の中にいなければ安心感を得られないのは、
むしろ自然であるとも言えよう。

私も承認欲求の塊りとして生きてきた。

勉強をするでも、部活をするでも、
私は常に他社の目を意識してきたし、今でも多少は意識する。
運動で立身出世を果たすことが不可能だと、幼い頃に理解して、
勉強で身を立てようと決意したことも、
自分が何をしたいか?
ではなく、何であれば他者より先んじられるか?
という観点で人生を選択してきたと思う。

就職してからも大学の知人のキラキラした仕事や高い給与に劣等感を感じていた。
まさに20代は私の暗黒期であったと思う。

他者から認められる必要は全くない

そもそも、群れなくても人間は完全に一人になることは不可能だ。
無人島に1人で暮らしたとしても、
どこかに住むだれかを意識せざるを得ないし、元の社会に戻ろうかと悩むこともある。

ましてや日本人として暮らしていれば、
買い物もする。
家も買う、借りる、修理する、ライフラインの支払もある。

完全に孤独になることなど、不可能なのだ。

しかし、経済的に自立しており、他社に依存せずに暮らしていけるならば、
他者から認められたいという本能の要請は却下して構わない。

私がこの境地に達したのは、
「嫌われる勇気」を読み、課題の分離という概念を理解したことが契機である。
他者の課題に介入しない、自分の課題に介入させないという対人関係のルールを制定してから、心が自由になった。

私は息子であっても、この原則を貫くし、妻であろうと上司であろうと、
この原則を守る。

息子が勉強をしようがしまいが、私の課題ではないので、放置する。
実際スマホ依存症になって不登校になってしまった息子に対しても、不登校を解決しようとは思わなかった。
私の資金を使って、スマホに依存させるのはバカバカしいので、さっさとスマホを解約し、スマホを取り上げるだけである。
息子に対しては成人までは養育する義務があるから、必要な協力を私が納得して支払える範囲で支払うだけの話だ。

将来薬物に依存しようが、反社会的勢力になろうが、終局的には関係ない。
一応親なので、アドバイスをするが、息子も別人格なので、最後は息子の判断なのだ。

妻に関しても所詮は別人格である。
彼女が好きなようにしたらよい。
浮気をしようが何をしようが構わない。
夫婦と言う関係であり、子供がいる以上は、協働して子供を養育する必要があるから、
その範囲で協力し合える関係であれば十分である。
子供を作らないのであれば私は、結婚する必要は全くないと思う。
子供を産み、育てるのに都合が良いシステムとして結婚があるのだと思う。
まあ、今日の議題では関係ないのでこの辺で終わる。

結局、親子や兄弟という関係性であっても、
あくまでも一個の人間として別人格であるのだから、
お互いに介入してはいけない境界線をしっかり引くことが大事だ。

これをせずに他人の課題を自分で何とかしようと思うから、
自分の人生が苦しくなる。

あの人は私をこう思っているかもしれない。
悪く思われたらどうしよう…。
というヤツだ。

他人が自分をどう思うかは、自分にはどうしようもない。
他人の課題なのだから、考えても無駄である。
傍若無人に振舞うわけではないが、自分が適当だと思うように対応をしたら、
それをどう判断するかは相手の勝手である。

私は自分が楽しいように生きる。

勤め人大家(但しホワイト企業)という生き方は私にとって非常に心地が良い。
生活に関しては給与で保障されながら、
家賃が毎月別に入ってきて、資産規模を拡大していく。
私が死ぬまで経済的に困窮する恐れはない。

好きなものは食べられるし、どこにでも行ける。
家族の生活の面倒まで見なければならないのは多少カネがしんどいものの、
生物として、自分の遺伝子が次代に継承されていくのは悪い気はしない。
私が納得のいく範囲で納得のいく支払をする。
(低偏差値大学への進学の学費は出さないという意味で)

群れる必要はない。
1人で寂しくない人間になろう。

をはり