社員の管理と無能社員の扱い、優生思想の萌芽

働き方

優れた人間には価値があり、劣った人間は排除する

優生思想である。
今、日本ではこれにつながる思想が勃興している。

中でも老人には価値がない。
どうせ死ぬヤツにカネを使うな。
現役世代は老人に搾取されている。

このような思想が蔓延しつつある。
ナチスでもこの優生思想の名の元、障碍者差別から、
ユダヤ人の虐殺、侵略した国家への弾圧を行っていた。

日本においてもまさに「優生保護法」なる法律があり、
特定の障害がある人の生殖を禁止するという、
法律まであったのだから驚く。

確かに親子間での生殖、兄弟間での生殖には劣性遺伝子が発現しやすいなど
統計的にも明らかな危険があるから、禁止するのは分かる。
まあ、人権侵害と言えばそうなのかもしれんが。

優生思想の危険な点は、
有用な形質が発現した人間と、無用な形質が発現した人間を
「価値」の有無で分けてしまうことにある。

「価値」を判断するのが、人間だとしたら、
その人間は神ではない。正しく裁くことはできないのだ。

自分が正しいと思い込んでいる人間、
最も危険な人間はこの種の人間だ。

孟嘗君(Chinaの春秋戦国時代の政治家)は
数千人の食客を養っていたと言い、その中には鶏のマネがうまい、
泥棒など多種多様なセンスを持った食客が居たという。

真に無価値な人間は一人もいないのである。
キレイごとではなく、実際にいない。

私の叔父などは精神障碍者で誰からも嫌われていたが、
それでもその母親にとってはカワイイ息子であり続けた。
母親にとってのカワイイ息子という価値があったのである。
実際母親だけには従順だった。
私は嫌いだったが。

そもそもだな、誰かに価値があって、
誰かに価値がないなどというのは危険思想である。
危険思想であっても、思っている分にはいい。
思想良心の自由の行使には何1つ制約があってはならない。
しかし、これを表現してしまうことは、
特定の価値観に基づく大量殺戮も起こしかねない超危険思想に至る危険がある。

この種の発言をする政治家が現れた場合には、
厳重に警戒しなければならない。
右側にも左側にもいる。
また、共産主義の方が、大量に人を殺す傾向にある。

保守より自由主義の方が暗殺や処刑が大好きなのだる。

社員を管理するという発想

ここまでは良い。
就業時間中や、会社の機密情報を守るという意味では
管理も必要であろう。
それは甘んじて受ける。

私も今マイクロマネジメントを受けており、
一挙手一投足を見られている。
それも構わん。

しかし、私のようなコストの高い社員を、
それよりもさらにコストが高い社員が管理するというのは、
かなり、かなり非効率であるとは思う。

勤め人であるならば、管理は当然である。
勤め人であるならば、管理がゆるい勤め先を探したいところだ。

ガチガチの管理はまだマシだ。
一方、「無能な社員」
と決めつける危険。
これはかなり危うい。

どんなに有能な経営者でもやってしまうのだが、
無能な社員と
有能な社員に分けて、
扱いを変えるのは特に危うい。

適材適所なのである。

長打力があるが、足が遅い野球選手がいたとする。
この打者に盗塁をさせて、
盗塁率が低い!と叱責するのはいかがなものか?

バスケットボールで身長が低く、スピードのある選手を
センターに起用する。

サッカー選手でフォワードのエースをディフェンスで運用しておいて、
お前何やってんだ!
と、叱責する。

こんなことをしてはいないだろうか。

私もまさにこれをされた。
借金取りをのんびりやってきたのに、
突然金貸しの営業マンに移籍させられたことがある。

日本の企業はこれをよくやる。
事前に相談があればいい方で、
「コイツは回収ができるから、営業もできるだろう、やらせよう」
いやいやいや、
「大谷翔平は野球ができるからアメフトをやらせてみよう」
いやいやいや、野球やらせておけよ。
って話である。

それでアメフトができないと分かると、
おい!何やってんだ。
お前勉強しろ。となる…。
なんだそれ。

こうなると社員は腐ってしまう。
心が離れるのである。

「狡兎死して良狗煮られる」
という言葉もある。

ちょっとこの業務が手薄だから、
アイツ暇そうだからやらせておけ。
というのは、経営者、上司の怠慢だ。

これをやるのは無能である。
無能上司だ。
無能な上司というのは、仕事ができない上司ではない。
間違った政策を強力に推進する上司。
これが一番ダメだ。

上司の仕事とは全体最適を実現すること。
誰もが働きやすい環境を整備し、
企業の収益を最大化することである。

担当領域の成果だけを追求しているだけではダメだ。
平社員→部門長の段階ではそれでいい。
自分の数字をやりつつ、部門の数字をみられる。
部門長の器かもしれないが、
部門長になってそれだけで終わってしまうとしたら、
それは経営者の器ではない。

出世の限界である。
一段下がることが望ましい。

私の器は、大将の器に決まってる

なぜかって?
それは既に社長だからである。

俺の法人の代表者として、社員はいないが、
取引先各所に気持ちよく働いてもらいながら、
利益を出し続けている。
これが将器というものだ。

自分の勤め先、自分の給与ばかりを考えるケツの穴の小さい上司は、
将軍の器ではない。
一兵卒、匹夫の器である。

匹夫エレキバンだ。

無能な社員などいない。

社員の適性や能力を見極めて使いこなせないアホ上司がいるだけなのだ。

をしまい