経済的自由という傲慢
自分が自由になると他者は不自由になる。
私が究極の自由を実現したいのであれば、
私は無人島に行くことになる。
恐らく愛する妻でもついてきてくれないだろう。
単身、自由を求めて南方の島へ乗り込むことになる。
食料、住居、衣服、医療もすべて私が自前で調達することになる。
密林のハンターであるジャガーやワニなどの捕食者からも、
自衛しなければなるまい。
素手では分が悪いので、武器を作る必要もある。
私はおそらく1か月も生きることができない。
何しろ安全な水すらない。
伝染病を媒介する蚊によって早晩死ぬだろう。
私は自由を求めて無人島に行き、1月足らずで死ぬという結末を迎える。
つまり人は自由でいようとしても、生きられないのである。
私が提唱する経済的自由という自由の裏には、
私の自由を実現してくれるために、
自由を捨てて、尽くしてくれる人を必要とする。
日本という経済社会で生きるために、
安全は「警察」が担う。
警察官は自分の労働力を提供して市民を守っているのだ。
食料も然り、スーパーで働いている人、
農産物を生産する人、運ぶ人。
皆、自由を差し出して労働の対価を得ているのである。
彼らの「経済的不自由」なくして、
我々が目指す「経済的自由」は実現不可能なのである。
俺は労働力を提供しないが、お前らは俺のために労働力を提供しろ。
エンタメも忘れるな、面白いことをして俺を楽しませろ。
俺は女も金も手に入れる。
お前らはそのために労働せよ。
なんたる傲慢。
世の経済的自由を目指す諸氏に問う。
貴殿らが目指す経済的自由の傲慢さを認識した上でその言を吐くや。と。
他者への貢献ゼロの輩は経済的自由を得るに能わず
経済的自由を目指すものとして弁(わきまえ)ておくべきことがある。
無人島で生きる自由ではなく、
社会で他社からの助けを得て実現する経済的自由を目指すならば、
「社会に貢献する」事業を並走させねばならないのである。
私はまだ勤め人という立場で社会から存在を許容してもらっている。
あと10年もしないうちにポンコツ化して、
今の職場はお払い箱となるだろうが、
そのあとはもっと負荷の小さい借金取り勤め人をして定年まで頑張ることだろう。
65歳以降は年金にすがるだけではなく、
不動産を運用して、家を貸し、管理会社に報酬を払い、リフォーム業者さんへ代金を払って、社会に貢献していくことになる。
その対価として、生活させて頂くのである。
人間は社会なしでは無力だ。
野犬の群れにも勝てない。
協業しないホモサピエンスなど、サルと大差ない存在なのだ。
で、あるからして、私たちは勤め人の立場を脱して、
事業家になるとしても、社会とのかかわりを断つことはできない。
お互いが助け合う必要がある。
そしてその助け合いは、お金(カネ)を媒介として行われている。
この事実を忘れてはならない。
そして、一応言っておくが、その事業は日本国の法律に適合していなければならない。
闇金、麻薬売買、詐欺などは論外である。
そして納税を欠かしてはならない。
適法な事業を営み、社会に貢献することは人間として生きるための前提条件である。
勤め人卒業=経済的自由ならず。
勤め人以外に収入の道を持たない人間が勤め人を卒業することはできない。
それは中退である。
自分で事業を営み、その事業で生活できて初めて卒業である。
事業に失敗して再び勤め人に戻らざるを得ないような行為はまさに中退そのものだ。
勤め人を卒業し、経済的自由を名乗るならば、
欠かすことができない前提がある。
卒業して自分の事業で自分の生活を回せること。
これを欠かすことはできない。
5億円貯めて、それを少しずつ食いつぶすのも含む。
(5億作れる人はそんな人生を選ばないが)
結局、勤め人を卒業しようがしまいが、
社会から完全に自由になることはできない。
群れからはぐれた蜂、群れからはぐれた蟻の末路は見えている。
群れの中にあってなおかつ他者からの支援を受けて自由になろうとするのだから、
他者より努力しなければならないし、他者より有能でなければならない。
それでも私たちは経済的自由を目指すのか?
YESか?
であれば共に行こう。
勤め人+アルファの道を。
をはり