やりたいことが見つからない若者へ

働き方

自分探しの旅

20代までの若者にありがちなことだが、
「自分のやりたいこと」を探してしまう。

私の場合の「やりたいこと」それは、弁護士であった。
私は最終的に「弁護士の道」は諦めてしまったが、
その動機は「カネが欲しい、名誉が欲しい」というモノであった。
紆余曲折を経て、私は弁護士の平均を上回るカネは得た。それはさておき。

大体、やりたいことなんて、その程度である。
名誉欲、金銭欲、女、そんな欲望を叶える程度のものだ。
有名になりたい、カネが欲しい、女にモテたい。

そして20代で、これらを得るために悪戦苦闘するが、
大体、失敗に終わる。
なぜならば、社会には60代までの男がいて、
既に彼らのうち何名かが成功していて、
成功の道はしっかりと押さえられてしまっているからだ。

自分探しの旅は欲望の実現と言えよう。

この点を曖昧にして、「やりたいことを仕事にする」と、
張り切ってしまうのが、20代の病である。

やりたいことが分からないまま、30代となる

やりたいことを探して30代が近づいてくるとどうなるだろうか。
答えは
「周りと同じことをする」

これだ。
男は就職する、結婚する、家庭を持つ、家を買う。
女も結婚相手を探す、うまくいけば結婚して家族を持つ。

私もそうだ。

結局平均的な人間になっていくのである。
しかし、私はこれは悪いことだとは思わない。
人類が継続的に繁栄していくために、
大多数の人間が家族を作り、次世代を育てていくのは良いことだし、
自分がその大多数の1つであることは全くもって恥ではないのだ。

福沢諭吉は学問のすゝめにおいて、
仕事をして、家族を作って一身独立したなんて、蟻でもできることだ。
社会の発展に尽くしてこそ人間としてなすべきこと。
蟻の人生で良いわけがあろうか。
と、喝破していたが、私は良いと思う。
人が皆福沢さんのような人間でなくてもいいと思う。

やりたいことがない人間は、やりたいことがある人間のやりたいことの実現に使われる

やりたいことが見つからなくても良いのである。

やりたいことが見つからないのが当然だ。
そもそも、「やりたいこと」なるものは、
探すものではない。
探すまでもなく、
「これをやらねばならぬ」
と、勝手に湧き上がってくる感情である。

その感情が湧き上がって来ないなら、
「そりゃ大いに結構」
平和に毎日楽しく暮らしたらよろしいのである。

勤め人としてやりたいことも見つからないだって?
なんて幸せなんだ!そう思えばよろしい。

やりたいことが見つからないのであれば、毎日を楽しめば良い。

やりたいことがある人間は起業するかもしれない。
やりたいことがある人間は起業して、やりたいことを実現するが、
多数の協力者を必要とする。
やりたいことがない人間はやりたいことがある人間に使われるという役目があるのだ。
経営者が勤め人を雇うのも然り。
国家の方針を実現するために公務員を雇うのも然りである。

プランがない人間はプランを持つ人間のプランに従えば良いのだ。

繰り返しになるが、
これは全く悪いことではない。
売れっ子漫画家は、多数の読者を必要とする。
多数の読者として、仕事をして、漫画を買うのも社会の大事な役割だ。
売れる小説家もそう。多数の読者の側として、
天才を支えるというのも、とても大事だ。
そして消費者として、天才の創作物を楽しむ権利がある。
必死の思いで創作物を世に送り出す苦労たるや、想像を絶する。
そうして産み出された創作物を楽しむ多数派という立場は非常に良いものである。

若者達よ。
それでもあなたはやりたいことを探すのか?

私がやりたいことを見つけた瞬間の話をしよう。

さて、やりたいことは探すものではない。
やらざるを得ないこと。
やりたいことがないと言うのはトテツモナイ幸福。
天才達(漫画、アニメ、漫才、科学、政治、経営者)の創作物を享受する多数派の良さについて説明をした。

しかし、しかしである。

凡夫たる私は、弁護士の道を諦めて多数派になったのだが、
どうしても「やりたいこと」いや、
「やらざるを得ないこと」にぶつかった話をせねばなるまい。

それは
「経済的弱者」の地位に押し込まれることに対する怒りである。
私はカネが欲しくて弁護士を目指した。
学歴もソコソコあった。
しかし、弁護士を諦めて就職した先は、サラ金の子会社である。

恐らく40歳になっても、年収は1,000万円に届かない。
自分の大学の同級生は30代で楽に1,000万円に届く。
私はこれが嫌だった。
嫌で嫌でしょうがなかった。
これが「やらざるを得ないこと」であった。

総合商社やメガバンク、大手コンサル、外資系金融に
転職することも考えたが、新卒一括採用というハードルがあった。
既に大学を卒業していた私には無理だった(そう思えた)。

そして、私は考えた。
「ソコソコの中堅企業で年収500万円、副業で年収500万円、
 併せて1,000万円にすれば同級生たちに並ぶ」と。
全くもって小さい「やるべきこと」「やりたいこと」ではないか。
江戸の仇を長崎で討つような話だ。
同級生たちは別に私を見下していたわけでもない。
私が勝手に劣等意識を感じてイライラしていただけなのだ。

それでも私にとってはこれが
「やりたいこと、いや、やらねばらならぬこと」だった。

就職活動や資格試験に失敗した結果、
相対的に自分の年収が低くなったことが許せない。
どうしようもなく小さな人間であるが、これが事実である。

私はやりたいことを見つけた。そしてやりたいことを実現して、再びやりたいことがなくなった。

世界記録を更新したアスリート。
総理大臣になった岸田さん。
世界売上TOPになったトヨタ自動車。

目標を達成するというのは実に偉大だ。
しかし、上るべき山がなくなってしまうというのは、ちょっと寂しいことだ。

同様に、
私は今、再び20代に戻ってしまったかのような空しさも感じている。
前述の通り、私は同級生並みに稼げるようになりたかっただけだ。
ギガ大家になって、億単位の収入が欲しかったわけではない。

不動産で予定通り年収1,000万円を超えた。
手取りでも500万円ある。
しかし並行して勤め人として転職でもステップアップしてしまったので、
同級生並みの給料がある。

「500+500で1,000にしてやる!」
と、息巻いていたら、
「500+1000で1500」
になってしまったのだ。

私は目的を失った。
そして新たに目標を探し始めた。
Twitterもやってみた。
ブログも始めた。
しかし、
「これじゃない。こんなことがしたかったわけじゃない。」
という感覚しか湧いてこない。
勤め人を卒業して大家だけで生きていくというのも、
良いとは思うが、仮に私が専業大家になったとして、
今勤め人として社会に貢献している以上の仕事はできそうにない。
さらに人間関係もどんどん狭く、ショボくなることは目に見えている。

私は自分探しをやめて、
毎日を一生懸命生きることにした。
勤め人を一生懸命、大家業はソコソコ。

多分、
いつか再び、
やらざるを得ないことが目の前に現れると思う。

その日が来なければ毎日一生懸命生きて、老いて死ぬのみである。

やりたいことは探すな!

私の人生を踏まえて、
「やりたいことが見つからない」
という悩みに対する答えを出した。

「やりたいことを探すな!」

である。
いつか必ず、
「やらねばらなぬこと」
は目の前に現れる。
それまで人生を楽しめば良いのである。

野生の動物はやりたいことを探さない。
食って、生殖するだけだ。
経済を発展させて、
衣食住を満足させてしまったが故に、
人間だけがこの悩みを持ってしまう。

しかしこれは悩みではない。
今は娯楽も何も多い。
思う存分、食って、生殖して、エンタメを楽しんだらいいじゃないか。
何の疑問も持てぬならば、それは大いに幸せなことだ。
この幸せを享受すればよい。

でも、勤め人として400万円程度の給料を得て、
長時間拘束されて、60歳までコキ使われて、
中途半端な金額の年金をもらって生かされることに怒りを感じたキミ。

キミの怒りは果たして本物だろうか?

その怒りが本物だったのならば、
キミは私の同志だ。

勤め人という安定した地位を維持しつつ、
死ぬまで(いや死後も子孫へ)続く安定収入を並走させるという
「イイとこ取り」の、
ちょっとズルい人生の裏道を共に歩こうか。

(補足)ショボい幸せを得たいなら是非こちらへ。
    起業とか年商10億とか言う派手な人は他を当たって欲しい。

をはり