2025年9月20日(土)

日々雑感

毎日毎日更新しているが、
土日は記事を予約して投稿している。

7年もブログが続いている。
ブログを開始したキッカケは聖丁だった。
最初はアフィリエイトをやろうとも思っていたのだが、
最低限のアフィリエイト(Googleとアマゾンのみ)で、
まあ、サーバー代とドメイン代を払える程度の収益である。

確定申告もしていない。
(雑所得20万円以下)

このブログは私にとって何か?
という話だが、
これは社会との接点であろう。

勤め人としては、同僚と言っても所詮他人だ。
特に勤め人同士の知り合いってヤツは人間関係が特殊である。
友人のようで友人ではない。
プライバシーの開示も特殊だ。
キドニタテカケシイショクジュウとか、
会話していい内容については制限がある。

政治、宗教、年収、健康などは話をしないなどのマナーもある。
これは労働者を労働者として扱いやすくするためのルールと言ってもいい。
そんな閉塞した人間関係で日々を送っていると、
一種の洗脳がキマってくる。

特に副業、いや勤め人の年収より高い事業を持ちながら勤め人をやっていると、
この閉塞した生活、人間関係が嫌になってくるのだ。
このストレスを開放するのがこのブログって寸法だ。

王様の耳はロバの耳である。
無論勤め人仕事の詳細については細心の注意を払って書いているが。

もう1つは「遺言」だ。
私の死後、このブログは閉鎖されるであろうが、
ムスコ達への遺言として残しておきたいということである。

死ぬときに渡すノートにはこのブログの管理者情報をしっかり書いておく。
まあ、読者の皆さんより私は長生きするつもりだから、
最終更新日に皆さんはもうこの世にいないだろうがwwww。
お互い長生きしようぜ!

さて

話は変わるが、

40代も半ばに差し掛かってくると、
勘定のアップダウンがなくなってきたと、思う。
若い頃は勤め先の上司やら債務者に怒り心頭に発することがよくあった。
最近も天才上司君にブチ切れていたが、
怒ったと言っても、淡々と怒るようになった。
怒鳴ることも、モノに当たることもない。
ブログに書く程度のことである。

現実では衝突もしない。
当然、指名解雇なんて労基法違反(厳密には労働契約法16条)をやってきたら、
録音して内容証明郵便、さらに弁護士委任、精神的苦痛による損害賠償請求、
ついでに鬱病になって休職という反撃を用意していたが、
さすがに相手もバカじゃない。
明白な違法行為はやってこない。
オトナのケンカはこんな感じである。

とにかく怒ることが少なくなったと思う。
息子の不登校も30代までは殴る蹴る、家から3日程追い出すなどはザラだったが、
今となると「まあヤツの人生だから」と、怒りも湧かなくなった。
18歳以降ニートやってたら、私が引っ越していなくなるだけの話。
現実的には末っ子が家を出たら、ニート長男を置いて家を出るだけだ。
方針さえ決まったら怒っても仕方ない。

これも加齢に伴うものなのか?
それとも勤め人の年収を本業となった大家業が上回ってきたからなのか‥‥。
恐らく「両方」だ。

実際40代、50代の中年がガルバ(ガールズバー)の20代の女を刺し殺す事件もある。
加齢だけで人間穏やかになるとは思えない。

衣食足りて礼節を知る。
経済的余裕ありて人格者となるのだと思う。

40にして惑わず。
とはよく言ったもので、まあこの齢になってやっと落ち着いてきた。
勤め人卒業とか勤め人がダメだとか
色々惑っていた気がする。

50にして天命を知ると言う。
確かに天命が何かよくわかっていないかもしれん。
政治の道に進むべきか?勤め人を続けるべきか?
経営者になるべきか?インフルエンサー活動をするのか?
実はハッキリしていない。
50まで天命知らんでええんか?
という説もあるが、まあゆっくり決めていく。

孔子と言う人は春秋戦国時代、紀元前5~6世紀の人だが、
ずいぶん悠長な話である。
70にして云々、と、まあ長生きを前提にしている。
あの時代にして。だ。

これは30代からずっとそうだが、
高い車、ウェーイした飲み会(女のいる店)、高級品全般には嫌悪感があった。
40代になると嫌悪感を感じなくなった。
嫌悪感を感じるというのは、やはり羨ましいと感じる部分があっての反発であることが多い。
私の場合は、高級車、ウェーイ飲み会、高級品を買える経済力に対して妬みがあったはずだ。それ自体はうらやましいわけではないが、
そこまでの経済規模を構築できた、才能、手腕、運に対しては大いに羨望する。
今もモチロン羨ましいのだが、人は人、我は我。
と、ありのままを見ることができている気がする。

例えば
勉強ができる子供がいる人がいる。
一方我が子はあまり才能を感じない。
これも確かに羨ましいと言えば羨ましい。
しかし、それも、これはこれ。

子供の学歴には母親の「狂気」が大いに影響を与える。
さらに父親の「経済力」も重要だ。

©2月の勝者 高瀬志帆先生

母親の狂気は確かに足りなかった気がする。
しかし、受験競争で勝ったとして手に入るのは勤め人として
より、マシな会社に入社できる可能性が高まるというチケットに過ぎない。
労働者としてマシなポジションを得られるってヤツだ。

は受験戦争に関してはフラグを回収したと思っている。
東大に入れなかったのは残念ではあるが、
まあ納得している。
子供は彼らなりに納得できる学歴を身に付けたらいい。
そこまで親が面倒をみる必要はねぇと思うんだ。

逆に、彼らに別の才覚があった場合に、
勉強なんてさせてしまうことで、そっちの可能性を潰す可能性すらある。

そんなわけで、子弟教育とやらも、あまり意味がないと思う。
最終的な結論は確率だ。
自分と自分の嫁の間にできた「子供」という肉の塊に対して、
どのような「魂」が入るのか?
それに尽きる気がする。
よって、重要なのはたくさん子供を作ること。
最低3人は必要だと思う。

さらに大変なことに
名馬は常にあれども、名伯楽は常にはなし。
という言葉に集約される、
子供が天才でも、親にはそれを見抜く目がないってことだ。
親が「教育でゴザイマス」と言ったところで、
やることはせいぜい詰め込み受験教育ってオチだ。
くだらん。

最低限教え込むのは、異性への対応方法、それと資本主義でのコマの進め方。
この2つは確実に正解がある。
つまり金と女(男)である。
これだけだ。
私よりも上手な人、聖丁他多数もいる。
私から手ほどきを受けてもいいが、もっと上手が人がたくさんいるから、
そっちから学んでもいい。

話がそれてきたが、
要するに40代も半ばを超えて、
子弟教育なんてものも答えが出ている。

そんなものを頑張るよりも、
父親はカネを稼ぐ方が大事だ。
いざ息子が天才であっても、大学に行くだけの金がなかったらオシマイだ。
芸能の才能があっても、バイトして時間を無駄にしないといけなくなる。
オヤジがなすべきことは、まず、カネを稼ぐこと。
男の幸福はカネと女だと教えること。
資本家になった背中を見せて、オヤジみたいになりたい。
と、思われることしかないと思うのだ。

この点、もはや変節しようがない。

まあ、色々散らかってしまったが、
私もやっと不惑となったと思う。
ただのガンコオヤジではない柔軟性を持ちながら、な。

つづく