15棟18室大家になった45歳、春

運用の話

3月も終わる

大学生の頃、私は弁護士を目指していた。
理由は当時の弁護士の年収は平均で1,500万円。
少なくとも1,000万円プレイヤーにはなりたいと、
そんな夢を見ていた。
18歳の3月は、東大は落ちたが、東京のお私立大学に合格したので、
まあこんなもんか。
と思っていた。

それから27年。
あっという間だった気がする。
結局法曹にはなれなかったが、
年収は当時の目標の2倍以上高いところまで達成できた。

最初は勤め人としては700~800万がせいぜいだと思っていたものの、
もっと高くまで行けた。
700~800万がせいぜいだと思って不動産で補っていくぞ。
と、思ってコツコツ進めてきたら、
年収ベースで1500万円、手取りベースでも700~800万が残るようになってきた。

家族を持つことに関しては若い頃は興味がなかったが、
45歳にもなると、こんなにカネがあっても仕方ないな‥‥。
と、思うことがある。

今、子供が居なかったら、将来の人生がツマラナイものに見えていたかもしれない。
その意味で、早めに子供をもうけて良かったと思う。

昔の自分が見たら、今の私は十分に納得できる未来の自分だと思う。
3月はステージが変わる季節である。
そんなことを思った。

18室の内訳

区分マンション‥‥4室
木造アパート‥‥3室
連棟テラス‥‥4室
木造戸建‥‥7室

戸建を室と数えるのはイマイチな気がする。
その意味では世帯数の方がしっくりくるかもしれない。

区分とアパートは嫌いなのでもう買わないと思ふ。
連棟テラスはモノによる。
木造戸建は今後も増やしていきたい分野だ。

アパートの何がイヤだって、
隣人同士の争いである。
東京23区内で家賃6万円である。
ワンルームより安い。
それで2DKなのだが、何かとトラブルがある。

誰かがうるさいから何とかしろ!
とかなんとか。

最近の構造のアパートであれば、
騒音もだいぶ改善させれているのかもしれないのだが、
いかんせん築60万年である。

そのうち全空室になったら、
壁を全部ぶち抜いて100㎡の貸家にして家賃20万円にしようかと
画策している。
その前に隣地を買って接道したいが。

区分を買わない理由は高い。
これに尽きる安ければ当然買う。

連棟テラスと戸建は今後も買い進める。
とにかく売主が個人で、不要なモノを売るというスタンスで売ってくるから、
安く買える。
直接安くは変えないが、業者が買い叩いて、
それを私にちょっと利益を乗せた程度で売ってくれるから、
私の投資目線に合う。

そんな次第である。

まあ2世代、3世代と進んでいけばSAT家もビルや新築もやるようになるかもしれないが、
私の世代では勤め人と貸家業だけで行く。
築古を買って、適度なリフォームをして貸すというスタイルだ。
息子どもはなんとなく普通に大学を出て勤め人をしそうな感じの人種だが、
低レベルな大学しか行けないようであれば、行く必要無し。
内装やリフォーム、解体などをやらせる。
多少頭が回れば、賃貸管理、家賃保証業務。
勉強ができるようなら、司法書士や税理士でもいい。

とにかく不動産業はビジネスのすそ野が広い。
大勢の一族が食っていく上でこの上ない業種だ。

SAT 45歳これからどうしていくか

2025年3月、家賃収入が給与収入を超えた。

記念すべき月である。
まあ月給30万、40万の零細勤め人の給料ではない。
ハイスペ勤め人()の給与額を上回る家賃額だ。

おまけに妻も私以上の家賃収入がある。
(義母、義姉、義兄の監視もあるが)

つまり、ハイスペ勤め人同士のダブルワーク家庭並の給料があるということだ。
さらに、労働する必要がないのである。
ビジネスからその水準の収入があるということだ。

その状況で勤め人を続けると言うのもアホな話ではある。

アホな話ではあるが、大家と勤め人以外稼ぎ方を知らんので、仕方がない。

しばらく続けることにする。
タイミングというヤツは勝手にやってくるものだ。

織田信長に足利義昭が上洛を促す使いを出したのは、尾張統一後。
浅井、朝倉など有力大名の断られてやっと信長に出番が回ってきたのである。
しかし、斎藤義龍・龍興に阻まれて上洛は出来ず。
美濃の統一まで終わってからやっと上洛できたのである。

逆に尾張1国の首領では上洛が失敗に終わった可能性もある。
濃尾統一により上洛が成ったとする考え方もできる。

その意味では徳川家康公の関東移封から関ケ原の合戦迄の10年も
まさに時を待つ時間だった。
拙速に行動を起こして失敗した事例は枚挙にいとまがない。

武田勝頼はハッキリとその傾向にある。
何も甲州・信州・駿河・上野の4カ国を領有しているのに、
戦線をどんどん広げる必要はなかったのである。

秀吉の明への出兵も無意味だった。
豊臣政権の寿命を縮めただけの結果だ。

じっくりと推移を見守る。
その後満を持して攻める。
徳川家康公は1543年生まれだ。
関東移封が1590年。この時47歳である。
ここから10年待った。
私はまだ45歳である。
じっくりと時を待つ。

その間に豊臣政権は朝鮮への出兵、
千利休を自害に追い込み、豊臣秀長の死去など、
不運が続く。

私も拙速に勤め人を卒業する必要はないのである。
私の不動産は放っておいても育つ。
息子らも成長する。
力は増すばかりである。

一方勤め人の方では私の待遇は何も変わらないが、
給料だけは貰える。
これを私の商売に流しつつ、
更に不動産を増やして時を待つのだ。

家康公と比較してどうしようもない程
低い次元の話だが、勤め人卒業である。

時は今!
SATが独立する
五月かな

つづく