役に立たない人間は存在しない

読書&インプット

アドラー心理学は厳しいようで優しいような哲学だ

嫌われる勇気と幸せになる勇気
ベストセラーなので読んだ人も多いと思う。

よく考えて欲しいのだが、ベストセラーといいながら、
せいぜい200万部そこそこではないだろうか。
日本の人口が1億2,000万人もいることを踏まえれば、
1%でも120万人、2%程度の人しか読んでいないのである。

まともに本を読む人間は2%だということだ。
本を読まない人間は自分の成長のチャンスを捨てていることになる。
明日死ぬつもりで生きなさい、永遠に生きるつもりで学びなさい。

と、誰かが言っていた気がするが、
まさに正鵠を得ている。

この本は実はAudibleで聴くのに適している。
なぜならば、この話は哲学者(岸見一郎先生)と若者(著者)の対話形式で進んでいくので、耳から入れるのが良い。
また、アドラーの考え方は1度読んだだけでは理解できない。
日々、人とコミュニケーションを取りながら実践し、
再び読書に戻るというプロセスが必須なのである。

私は既に5回以上聞いているが、未だに理解の深淵に至っていない気がする。

今回は役に立たない人間などいない。

というアドラー心理学の1つの考え方を取り上げたい。

私の中に巣食っていたいた、専業主婦不要論

私は妻と共働きをして金持ちになろうと決めた。
しかし、私の勤め人+アルファの回路は急速回転し、
私単体で年収3,000万円を超えるに至った。

妻は3人の子育てをしながら実家の家業を手伝い、
なかば専業主婦に近い立場を手に入れたのである。
私は最初これを苦々しく思っていた。

その思いは「専業主婦も立派な仕事であり、育児は大変な仕事だ」
というカウンターを当てることで心のバランスを取っていたのである。

カネを稼いでくる私がもっとも重要な人間だと言う意識があったと思う。

世の世帯年収の多くの割合を稼ぐ人(男女問わず)は、
この考えをしてしまうことも多い。

私の考えを敷衍(ふえん)していくと、
子育てをしないで家事労働だけしている女性は、
所詮家政婦に代替される存在で、金銭をもっと効率よく稼がなければいけない。
という議論に発展していき、最終的には価値が低いということになってしまう。

「お前の仕事などプロの家政婦を使えば10万円で3倍の成果が出るぞボケ」

という結論に至る。

何という情けない人間であろうか?
資本主義の毒が脳髄まで達した状態であり、
私にはこの考えがあったことをここに告白する。

人は存在するだけで価値があるという考え方

なんだこの宗教じみた偽善の言葉は。
と、私も最初は思っていた。

しかし、私の寄って立つ前提では
カネを稼いでいるだけで自分の価値を守ろうとしている私は、
仮にカネが稼げなくなったら価値がない人間に成り下がってしまう。
今日、交通事故に遭って半身不随になったら、

私は無価値な人間となり、
死を選ぶ以外に私は道がなくなってしまうのである。

その意味で「人は存在しているだけで価値がある」
という考えは、全人類への救いになりうる。

NEETはどうか?
いくらNEETとはいえ、親がいれば死ねば悲しむ。
子供は親にとって生きていてくれるだけでウレシイものだ。

同様に私の親ももはや労働できる年齢ではないが、
元気でいてくれるだけでありがたい。
仮に老人ホームに入って寝たきりになっても会いにいくだろう。
往復4万円をかけても会いに行く。
存在してくれているだけでまさに価値がある。

では天涯孤独の身の上ならどうか?
それでも友人がいれば友人、
ではだれ一人友人もいない人間はどうなのか?

それでも、生きて、働いて、消費して経済を回しているのだから、
価値がある。

そうアドラーは言うのである。
無人島で経済活動の外にいたらどうか?
それでも何かは食うだろう。
排泄もするだろう。
排泄物にはバクテリアが分解するという仕事がある。
そうして生態系を維持する。

アドラーが言う「共同体感覚は人間関係のみならず、宇宙や無機物まで含む」
というのはまさにそのことである。

人間として存在しているだけで価値を感じることを推奨しているのである。
労働しているから価値があるわけではないし、
誰かに存在して欲しいと思われているから価値があるわけでもない。
あらゆる人間に価値があり、あらゆる物質にも価値があるというデカイ話なのだ。

私にも価値がある、誰もが価値がある。

この考えを持ちつつ、
アドラー心理学の有名な考え方「課題の分離」を使うと、
他人を攻撃したり、比較するという悪い行動習慣を消すことができる。

私は常々学力や仕事力、カネを稼ぐ能力などで他人と比較する人生を送ってきた。
金持ちになっても、まだ勤め人を卒業できていないまま30歳半ばを過ぎてしまった・・・。
そんな劣等コンプレックスの奴隷であり続けていたのである。

私は私のままで十分価値があるし、
他人も全てそのままで十分に価値がある。

人生は競争ではなく、1人1人が自分の課題に取り組みながら生きる教室なのだと理解できる。

専業主婦であっても。
仮に妻が寝たきりになっても、私の妻であり、子供の母親であること自体に価値がある。
子供がいなくても、親がいれば親、親が死んでも友人。
友人がいなくても、介護の仕事の人の役に立っていることだろう。

私は稼げなくても親の子供であり、子供の親である。
生きて存在する価値があるのだ。

どうぞ自己をありのままに受け入れて価値があると思ってください。

つづく