勇将の下に弱卒なし
勤め人集団は、資本主義という経済戦争を戦うための組織である。
資本家によって集められた資金で武士団のような集団を形成する。
株主というオーナーによって任命された武士団の長、これが役員だ。
オーナー社長である織田信長が自ら出陣した桶狭間の合戦。
戦国大名も初期には自ら出陣する。
領土が広大になれば、軍団長を任命して任せる。
勤め人も、部長、〇〇管掌取締役部長など、肩書を付けて業務を担当させられる。
武田信玄も上杉謙信の抑えに高坂昌信、上野(こうずけ)方面には内藤昌豊、
南信濃高遠城主には武田勝頼、北信濃には馬場美濃守春信を配置。
織田信長も北陸に柴田、丹波に明智、播磨に羽柴、岐阜には織田信忠と、
特に前線には有能な将を配している。
勤め人集団にあっても、大名が「有能」と判断した武将を各方面に配置するように、
営業部部長、総務部部長、法務部部長などを配置する。
では、よき上司とはどのような上司だろうか?
戦国武将のよき将とは、当然結果を出す将だ。
明智の丹波平定、秀吉の播磨平定を見て、柴田勝家が奮起して(上杉謙信死後)
越中まで進軍した。
一方で、佐久間信盛などは、本願寺攻の不手際を理由に改易された。
これには、織田家中の方面軍団長はビビったであろう。
勤め人軍団で言えば、いきなり営業第2部部長が解雇されたようなものだ。
「やべぇ、次は俺かも…。」
誰もがそう思ったに相違ない。
そして、60歳を間近に控えた明智光秀が本能寺の変を起こすのだが、
これは限界勤め人の爆発であろうと、過去の記事に書いている。
各軍団長の戦果は客観的に分かりやすいのだが、
秀吉、光秀、柴田、丹羽、佐久間など各将がどのようなマネジメントをしていたか?
に関してはよくわからない。
部下の証言を聞くチャンスがないからである。
しかし、信長が佐久間信盛に送っていた佐久間折檻状が残っている。
これをヒントにどのような問題が、彼にあったのかを検討してみたい。
信長直々の19か条にわたる糾弾の書状
一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。
佐久間信盛親子は5年も天王寺城にいたのに、いい働きも失敗も全く無かった。
皆この親子、何してたんだ?と不信に思っているよ。
俺(信長)もそう思う、もうバカ過ぎて何もいえねぇわ。
一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行くは、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。
恐らく佐久間親子はこう考えていたんだろう「本願寺は強いから、武力で押し切るのも、調略や交渉するのも難しい。」攻められたら困るから、城の防御ばかりを手厚くして何もせず何年も経過した。長袖(坊主)相手のことだから、いずれは俺(信長)に屈して退去するだろうと思ってたんだろう。でもな、戦国武士の道理ってのはそうじゃねえんだよ。こんな時は、敵とひと戦仕れば、オレ(信長)のみならず、お前の面目も立ったんだよ。皆ここまで苦労しなかったんだ。守り一辺倒で他に何もしないってなら、単にサボってたと思われても仕方ないんじゃないか?
一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
丹波での明智光秀の活躍は天下に光秀あり、を知らしめたわな。
秀吉の活躍は他の大名と比べてもそん色ないわ。
池田恒興の軍勢は少ないけどな、花隈城を落として名を上げてるんよ。
普通さ、こいつらの活躍を聞いたら、「俺も!」ってならんかね?????
一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。
普通は、俺も!ってなるんだよ。
柴田勝家を見ろよ。越前を任されているけど、俺もやらねぇと!
って思って加賀を制圧してるじゃんよ。
一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。
まぁ、戦が苦手ってのは百歩譲っていいとしてだよ。
じゃあ、調略をやってみらええやんけ。
戦争も調略もダメだったならさ、俺に聞きに来いよ。
「どうしたらいいですか?」てさ。
お前、5年間一回も聞きに来てないよね???
いやもうふざけてるとしか思えないわ。
一、やす田の儀、先書注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣はす事、手前の迷惑これを遁るべしと、事を左右に寄せ、彼是、存分申すやの事。
与力の保田知宗が送ってきた手紙には「本願寺を制圧すれば他の小城の一揆勢は退散する」と書いてあって、お前ら親子の花押も押してあったけどさ。
これよ、小賢しい言い訳じゃね?もうさ、言い訳するに至っては救いがないよ、お前。
一、信長家中にては、進退各別に候か。三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内にも与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力、少分の者どもに候へども、七ヶ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度を取るべからざるの事。
織田軍団の中でさ、佐久間軍団はかなり優遇されているよね。三河、尾張、近江、大和、和泉、根来衆も言えば援軍は出してくれるから、紀州にも与力がおるやん。これらの与力ををなんで使わんの?戦えば負けねぇよ?
一、小河かり屋跡職申し付け候ところ、先々より人数もこれあるべしと、思ひ候ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。
取り潰しにした水野信元の旧両三河の刈谷の土地はお前に渡したよね?
それで兵も増やしたかと思ってたら、水野の旧臣をお前、追い出したよな…。
だったら、新しい家臣を採用したのかと思ったら、お前、一人も採用してないよね。
それはさ、金を貯めこんでるとしか思えねぇんだけど、言語道断じゃね?
一、山崎申し付け候に、信長詞をもかけ候者ども、程なく追失せ候儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱い紛れなき事。
山崎(尾張)を与えた時も俺からよろしくって言っておいた家臣たちを、しばらくしてお前、追放しただろ?
これも刈谷と同じことを考えていたんだろ?
一、先々より自分に拘へ置き候者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付け、新季に侍をも拘ふるにおいては、是れ程越度はあるまじく候に、しはきたくはへばかりを本とするによつて、今度、一天下の面目失い候儀、唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。
佐久間の家臣に加増してやって、与力を与えれば、兵士も増えるだろうに、それをしないってのは、もう怠慢はなはだしいって話よ。蓄財ばかりをするってのはよ、もう天下の恥さらしだよ。いや、中国、朝鮮、欧州迄届く恥さらしってヤツだよ!
一、先年、朝倉破軍の刻、見合せ、曲事と申すところ、迷惑と存ぜず、結句、身ふいちやうを申し、剰へ、座敷を立ち破る事、時にあたつて、信長面目を失ふ。その口程もなく、永々此の面にこれあり、比興の働き、前代未聞の事。
そういえば朝倉家を滅ぼした時な、直接俺(信長)が怒ったことあったよな。
その時恐縮するでもなく、言い訳したよね、その上勝手に席を立っただろ。
いやあれは大いに俺(信長)は恥をかいたよ。
あの時の言い訳のような戦果はないよな?俺の言ったおとりじゃねぇか?
そんなヤツ聞いた事ねぇわ。
一、甚九郎覚悟の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。
佐久間信栄に至っては書き出したらもうキリがねぇわ。
一、大まはしに、つもり候へば、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘へず、其の上、油断の様に取沙汰候へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。
要するに、つまり佐久間は、欲深く、心根が悪い。人材も採用せず、何もしないってことはだよ?佐久間親子はもう武将とは何か?を全く分かってないからこんなひどい有様なわけ。
一、与力を専とし、余人の取次にも構ひ候時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相拘へず、領中を徒になし、比興を構へ候事。
佐久間は与力衆ばかりに戦わせて、家臣も増やさないで織田家中の資材を浪費してるよね。
もう卑怯者と言わせてもらうわ。
一、右衛門与力・被官等に至るまで、斟酌候の事、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。
佐久間の与力から家臣に至るまで、皆動きが悪くなってんだよね。
なぜだと思う?
佐久間は「かわいらしい娘が服の中に針を持って指すように」扱うから、皆もう遠慮しまくってんだよ。
一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
信長が家督を継いでから30年仕えてるけど、佐久間には目立った戦果が1度たりともなかったよ。
一、一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事。
俺の記憶の範囲だと、三方ヶ原の戦いの時に、家康の援軍に佐久間を派遣したよな。
盟友の家康のために派遣したんだけどさ、家康は家臣を相当失ってるけど、佐久間の兄弟、身内や家臣は誰も討ち死にしていないのは時の運とは言えないわ。さらに、平手汎秀を捨てゴマにして逃げたとしか思えないわ。
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。
こうなった以上は、どこかの敵を攻め滅ぼして恥を雪ぐか、討ち死にするしかない。
一、父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事。
佐久間親子は頭を剃って高野山に隠遁して生涯許しを請うしかないのでは?
右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。抑も天下を申しつくる信長に口答申す輩、前代に始り候条、爰を以て、当末二ヶ条を致すべし。請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。
まあ色々書いたけど、何の働きもなく、不始末の詳細について保田安政の書状の件で思い出したよ。天下人の信長に口ごたえするような立派な佐久間よ。
最期の2か条を実行して見せろ。さもなくば2度と許さん。
勤め人も笑えない内容
まあ、ブラック企業の社長みたいなヤツだな、信長。
という内容だ。
しかし、勤め人として無能な上司は佐久間ということになるだろう。
ケチ、せっかく予算を与えられても、自分の懐に入れて、人を増やさないヤツ。
守り一辺倒で、攻めもしないし、調略も使わない。
まあクソ上司である。
会社のカネや相手のカネでメシを食うが、自分のカネは使わない。
何の成果もあげないし、どうしたら良いか聞きにもこない。
挙句の果てに、結果が出てから手柄を自分のものにしようとする。
(信長が朝廷に働きかけて、本願寺を退去させた後になって、保田安政の手紙に押印して、さも予想通りになった!みたいな行動をしたこと)
最低だ。
俺にも部下の失敗ばかりあげつらって、自分の失敗は誤魔化す、クソ上司を見たことがあるが、今後アイツは佐久間と呼ぶことにする。
クソ上司とは佐久間だが、名将とは誰だろうか?
思い浮かぶ名君は多い。
「百万一心」の毛利元就、「人は堀人は石垣人は城情けは味方仇は敵なり」の武田信玄
この辺りは間違いない。また、人心掌握に長け、秀長の死前の秀吉と、
武田信玄の薫陶を受けた徳川家康、この4名がまぎれもない名君であろう。
部下の扱いが抜群に上手いと評判である。
長くなったので家康の部下の扱いを見よう。
鳥居元忠である。
石田三成の挙兵をある程度予見しながら、京都に残ったとされる鳥居元忠は、
伏見城で少数の兵士で守り続け、城を枕に討ち死にした。
彼は、家康のために死んだのである。
別にさっさと降伏してもよかったのだ。命を惜しむのであれば。
しかし、主君のために死んだ。
いいトップとは、部下に「死を克服させるほど信頼される」者だ。
この人を男にするために、俺はやる。
というヤツだ。
家康は死んだ家臣の未亡人を自分の側室にしてやるような男気のある人だ。
(現代の基準では悪と思うかもしれないが)
そういうところが、命を賭けるほどの忠義心を喚起させるのだ。
ようするにいい上司とは、部下をやる気にさせる上司だ。
まあ、クビにしようとしてくるような上司は、
後ろから撃ってくるようなヤツだ。
信用しろって方が無理だ。
逆に後ろから刺されるだろう。
これは予言だ。
をしまい