人間40年も生きたら、自分なりの愛の定義を持たねばならぬ。
愛とは一体何か?
人生において何度も愛を目にする。
映画、小説、ドラマ、この「愛」については、
何度も何度も繰り返し接するものであり、
人は感動してしまうものである。
しかし、この愛について言語化できている人はかなり少ない。
かくいう私も40年以上愛とは何かを明確に定義できなかった。
そろそろ人生も後半戦に差し掛かり、
この愛というものについて語るべき時が来たと思う。
親子の愛情
まず、親子の愛情である。
一般的に親子には愛情があると言う。
親が子のために愛情を示す。
自らを犠牲にしても子を助ける。
稀に子供が臓器を親に提供するケースも聞く。
これは愛を原因として起きる行為なのだろうか?
兄弟愛、孫への愛。
主に肉親の愛情を思考の出発点としてみたい。
まず、愛情が本能に近いものだとしよう。
確かに動物にも愛情はある。
魚でも自分が産んだ卵を守る。
鶏でも自分の卵を温める。
仮に愛情が本能だとすると、
愛情は極めて程度の低いものになってしまう。
まず、愛と言ってしまうと、
対象とする範囲が広くなりすぎてしまう。
ここでは愛を「人間の愛」と範囲を限定したい。
その上で、人間の愛が、肉親に向けられた場合、
これは「遺伝子の要請」と定義してしまうこともできる。
親が子を守るのは、自分の遺伝子が次世代に承継され、
さらに拡散されていくためのものである。
と、定義することもできてしまう。
男女の愛情も、男性から女性に対しては、
自分の遺伝子が受け継がれた子供を産み、育ててくれるから、
愛情を持つ。と、なってしまう。
女性から男性に対しても、
自分の遺伝子を受け継ぐ子供を守り育てていくうえで、
妊娠、育児という、厳しい期間を庇護してもらうために、
男性に対して愛情を持つ。
この定義によると、「愛」は「本能」ということになってしまう。
これは愛であり愛とは言えない。
人間の愛は確かに言葉の上では本能と重複して使われることがあるが、
遺伝子の要請=愛とすることはできない。
女性であれば分娩によって、自分の子供であることは明確だが、
男性の場合には自分の子供でない可能性もある。
仮に20年一緒に暮らしてきて、
実は他の男性の子供だとしたら、その瞬間に「愛」が消滅するか?
そうはならないこともある。
愛が遺伝子の要請であるならば、自分の子でないことが確定した段階で消えてしまう。
それは愛ではない。
確かに遺伝子の要請はある。
しかし、それと葛藤するものの正体こそ愛だと思う。
嫉妬は愛が故なのか?
愛し合う男女。
相思相愛。
男女の愛は、肉親の愛情と並び、最もポピュラーな愛の姿である。
しかし、
さらにポピュラーなのは「浮気」である。
男女両方について浮気が発生すると、愛は消えてしまう。
消えないまでも、浮気をされた方は嫉妬という感情が湧きおこる。
これは相手を愛しているが故に発生するのだろうか?
さらに浮気相手への攻撃性が生じることも、ある。
これも愛が故の行為なのだろうか?
確かに愛してい相手であれば、
浮気をしようが、病気になろうが関係ない。
極端な話、死んでしまってもどうでもいいことである。
残念だが、これも愛ではない。
浮気をしたパートナーへの怒りは本能に近い。
男性からすれば、自分以外の遺伝子を持った子供を作られるということであり、
女性からすれば、自分が妊娠、育児をする際に男性から協力を得られなくなると言う、危険の察知とその抵抗である。
これは愛ではなく、本能。遺伝子の要請である。
つまり男女の愛に関しても確かに愛の射程範囲ではあるものの、完全には一致しない。
単なる生物としての本能、生殖のプロセスに愛と名札を付けたようなものだ。
であるから、本能的な関心を失ってしまうと、
男は子供がいようがなんだろうが女を捨てるし、
女も、男がカネを稼げないと判断すると男を捨てたりする。
愛し合うから結婚するのだと思ったら大間違いだ。
単なる生殖に愛と名札を付けただけで、犬や猫とさほど変わらない。
こんなものを人間の愛として語るも愚かである。
人間以外の対象への愛情
愛犬家、愛猫など、人間以外への愛もある。
モノに対する愛情もあるだろう。
子供のころから大事にしているプラモデル。
愛用という言葉がそれを物語る。
時計や、車、愛車とはよく言ったものである。
人間以外への愛もある。
要するに大事にしているということだろう。
愛とは「大事にすること」と、定義できるかもしれない。
残念だが、これも違う。
欲しかったゲームを買い、散々遊んでしまって飽きる。
ただの物欲である。愛と言う言葉はモノにまで対象を広げてしまい、
言葉をどんどん軽くしてしまった。
犬でも猫でも大事にしているオモチャがあったりする。
取り上げると噛みついたり引っ掻いたりする。
物欲が人間の愛ではない。
本能と一線を画する、これが人間の愛である。
ここまで人間の愛を定義しようと試みてきたが、
全ての事例は「本能」に過ぎなかった‥‥。
人は本能にお化粧を施すために「愛」という言葉を発明しただけなのか?
私はここで「愛」とは「本能に与えられたキレイゴト」という定義をせざるを得ないのだろうか?
人は単なるキレイゴトに感動したり、涙を流すのか。
試練を乗り越えて結ばれる男女も、「はい、生殖活動の一環」と、切り捨てていいのか?
自らの命を捨てて、我が子を助ける親も「はい、遺伝子の要請、ハイハイ」と、片付けていいのだろうか?
これでは単なるニヒリストだ。
私は愛と本能を峻別する。
確かに愛と本能には似たようなところがあるが、それを峻別する一つの重要な要素を加える。
結論:決断、それが本能と愛を峻別するもの。
本能の発現と愛を切り分けるもの。
それは「決断」である。
愛とは主体的に自らが下す決断である。
本能に抵抗するという決断こそが愛だと言える。
目の前を通り過ぎた美女に心を奪われ(本能)、
美女に声をかける(本能)。
2人は結ばれて長い年月を過ごす。
男は女に飽きて次の女に向かう(本能)。
ここで男は女に本能的には飽きてしまっているが、
この女と結構しようと決断する(愛の始まり)。
この女を愛しているから、新しい女には行かないと決断(愛が故)する。
本能のままに流れるのは愛ではない、
まさに本能に抵抗しようとする人間の決断こそが愛だと思う。
仮に自分の子供が本当に自分の子供ではないと判明したとする。
本能は「捨てろ」と要請する。
しかし、それに抵抗してそれまでと変わらずに子供と接するという決断を下す。
これこそが愛である。
本能に抵抗することは必須の要件ではないが、人間が「愛する」と結論を下すことが愛なのである。
その意味では猫やモノに対しても一生大事にする!
と、主体的に決断するならば愛と呼んでもいいかもしれない。
愛情が薄い。という言葉があるが、これは本能が弱いのではない。
決断が弱く、長続きしていないのである。
動物の愛と人間の愛の大きな差は決断である。
本能にさえ逆らうという決断なのだ。
よって運命の愛などというものは存在しない。
決断は偶然を期待しない。
自ら決断し、行動するのだから、運命とは対極にある。
運命にすら逆らうと言う決断をこそ愛と言う。
運命に逆らって決断を下し、
その決断を生涯守り通したとする。
後から、運命の愛と賞賛されるに過ぎない。
始まりはどれも「よくある話」である。
決断せず、本能や感情に流されることは愛ではない。
私の愛の定義は「決断」だ。
真似しても良いと思います。
私も本の受け売りだ。
ただ、最も説明として腹に落ちたので、私もこの定義を採用する。
おわり