浅井 長政 (あざい ながまさ) 生誕 1545年 ~ 死没 1573年9月26日 ※享年29歳
湖北仁義
義を以て湖北に起つ
それが我ら浅井の誇りであり、
歩む道である
浅井の夜叉
あらゆるしがらみを断ち切り
我らが己が足で自立せん
正道邁進
信義を失えば道に迷う
いかなるときにも
正道を歩まん
長政十五歳のとき、
浅井家は六角家に
従属を余儀なくされていました。
長政は独立を志して、
六角家の同盟を解消。
家臣の支持を得ると、
自ら戦陣に立ち、
倍以上の六角家の軍勢を
打ち破りました。
こうして長政は、
湖北の地に浅井家の
旗を打ち立てたのです。
基本(若き大器):大名が自ら出陣すると、部隊の士気が上がる。
条件(望まれし大将):決戦で家臣が提案しやすくなる
条件(独立不羈/どくりつふき):同盟を破棄しても他勢力の心証が下がらない。
悪(家中不和):大名自らが出陣しないと部隊の士気が下がる
浅井家は朝倉家に恩義がありました。
そこで長政は織田信長と同盟を結ぶ際、
朝倉家を攻めないことを誓わせましたが、
誓いは破られ朝倉は苦難に陥りました。
長政は義に従い、信長に戦いを挑んで、
恩義ある朝倉を救い、
信義を乱世に貫いたのです。
基本(若武者):古参武将(士官10年以上の家臣)の施策力が増える
条件(自力救済):評定で軍事の施策力を多く獲得できる
条件(信義の戦):決戦終了後に兵数が回復する
悪(正道の戦):決戦に勝利しても戦意が上がりにくい
統率 83
武勇 84
知略 77
内政 52
外政 62
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信長との同盟に浅井はメリットがあったのか?
1560年信長は不破光春を使者として浅井長政と同盟を結び、
1567年に妹の「お市」を輿入れさせます。
まだ齋藤家と戦いを続けていた信長はきっと早くも京都までの
道筋を描いていたのでしょうね!
先見の明がありますね。
一方で1560年時点では浅井長政はまだ16歳に過ぎません。
実際浅井久政を強制的に隠居させたのは浅井の家臣団であると見るべきですね。
そうなると浅井長政が織田との同盟を結んだわけではなく、
気が付いたら同盟していたというのが正確な表現でしょうね。
私は織田が浅井へ調略をしており、同盟を進めさせるよう
働きかけていたのだと考えています。
浅井長政も天才信長を前によく戦ったと思いますが、
若干29歳にして亡ぼされてしまいましたね…。
信長と朝倉義景、人を見る目がなかったということでしょうか。
人の将来性を見極める重要性を教えてくれますね!