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相談者がみんな私より金持ちだ。
金持ちになるためのルールは簡単だが、
金持ちで生き続けるためには「哲学」が必要だ。
金持ちになってから、どう生きるべきか?
まさに哲学の領域である。
金持ちの定義は「労働力を売らずに自分と家族を養える状態」
資本主義世界ではこの領域に到達することが第一目標となる。
自分で自分の生活費を賄える収益を作ってからはまさに哲学なのだ。
私もその段階に至ったといって差支えないのだが、
この段階においては人の本性が出る。
目立つこと、異性、さらなるカネ、賞賛の欲求、物欲の拡大など
自分の人生を買い戻した後のまさに「余剰資金」をいかに
使うかに、その人物の「人となり」が出る。
メッキがはがれた後の地が出てしまう。
輝かしい成果を出していた勤め人時代を超えられない人は多い。
勤め人時代はオーナー経営者、株主など、優れた人の威光を
自分に重ね合わせて輝いていたに過ぎないから、
その次が色あせてしまう。
人に認められる必要もないと割り切れればいいのだが、
いい年して、勤め人の時代の「元〇〇勤務」とか言う人間が多いが、
元公務員、元メガバンク、元商社など、
元で売ろうとしている人間は昔を超えていないこと100%である。
かく言う私も元〇〇で売るのが一番商売になるとは思う。
しかし、それが恥ずかしいと思う羞恥心は持っているから、
今、勤め人をやめる前に自分探しをしているのかもしれん。
自分で自分を探しても、多分何も見つからない。
自分を探したければ、他者と会うしかない。
人間は人と人の間で生きる社会的な生物だ。
他者にとって自分が何者なのか。教えてもらわなければならないのだ。
子供がいて初めて父となり、妻がいてはじめて夫となる。
父母がいて子になれるのだ。
自分を見つけたければ、人の役に立つしかない。
見えてきた気がするが、まだ見えない。
まだ見えないうちは、勤め人をするのが、一番自分なので、勤め人を続けるしかない。
そのまま定年退職して、ただ大家をしながら、
孫の保育園の送迎をするだけの好々爺になるかもしれない。
しかし、それでもなお、好々爺という自分が見つかるし、
好々爺になるにも、息子が必要だし、息子の嫁が必要だ。
それを築いてきた自分の人生は誇っていいものだ。
肩の力を抜いて、つつましく生きたいと思う。
をはり