経済的自由を獲得するために最も重要なこと

勤め人卒業関連

結論から言おう。

「経済的自由を獲得する」と、決意することである。

以前、愛とは何かということを語った。
参考記事
愛すると言うことは情動でも偶然でも運命でもなく、
決断であると定義した。

経済的自由を獲得できるか否かも、
全く同じだ。
完全なる自由意思の下で、
経済的自由を獲得するのだ!
と、決意することである。

私はなんとなく勤め人をしながら不動産を買い進めて
気が付いたら勤め人を卒業したと言う人を聞いたことがない。

いずれも、勤め人を卒業する!
(経済的自由を獲得する)と、
強い決意を固めて一歩を踏み出した人々である。

貯金をする、不動産を毎日100件見る、買付を入れる。
このような手段の話は決意を固めた人間の行動の一例を示したに過ぎないのである。

まず、決意が必要だ。
さて、これを読んでいる諸氏、並びに私にはこの決意があるのだろうか?

決意を固めるための動機

生まれながらにして資産家の子息として生まれ、
将来は莫大な財産を承継することが決まっている者には、
前述の決意を固める動機が欠如している。

天下の覇者となった徳川家康に続く後継者達は天下を統一する!
という明確な意思、つまり動機を持てるはずがない。
既に天下は統一されているからだ。
しかし、徳川家康は間違いなく、天下泰平を目指したに違いない。
さらに泰平な天下が長く続くことを目指して、あらゆるシステムを構築していった。

その動機を今は知る由(よし)もないが、
動機があったことは疑いの余地がない。

決断を促す動機。
実はこれも重要な要素であろう。

成功した著名な不動産投資家の皆さんは、往々にして、
低年収の勤め人をしていた過去を持っていることが多い。
また、学歴、育った家庭、夢を追っていたが挫折した経験など、
比較的暗い少年時代、青年期を過ごしていたことも多い。

キラキラの経歴の人もいるにはいるのだろうが、
そのような人はあまり目に留まらない。

情報発信をしてまで、同じ境遇の人に手を差し伸べようと言う動機が欠如しているのかもしれない。

話がそれているので戻す。

決意ができない理由は動機が弱いのである。

不動産で成功したいな―と思うが、行動に移せない。
女が欲しいなーと思うが、ストリートに飛び出せない。

決意がでなければ行動ができない。
決意をするには動機が必要だ。
なぜ、俺は不動産で成功したいのか?
なぜ、俺は勤め人を卒業したいのか?
なぜ、俺は女が欲しいのか?

産まれながら野心的な人は楽かもしれない。
本能の命じるままに動機を形成することができるからである。

しかし、私も実はそうなのだが、
野心が産まれながら、それほど強くない人がいる。

女は別にいなくても良い。
カネは自分が生きられるだけあれば良い。

女はいなければいないなりに人生を楽しめる人。
カネはないなら、ないなりに人生を楽しめる人。

動機が形成できない人には決断もできないし、行動も期待できない。
我これを如何せんとするなきものは、我これを如何ともするなきのみ。である。

だから動機を形成しろ!
と、言いたいわけではない。
私も、齢(よわい)40も過ぎたので、それは言わない。

言いたいのは「無理するな」と、いうことである。
必要もないのに過度な目標を掲げる必要はないし、それは有害ですあらあると言いたいのである。
ホワイト勤め人だけで十分幸せなのに、無理に大家をやる必要はない。
自分の心がホワイト勤め人だけで満足ならばそれにとどまることも間違いではない。

但し、自分の本心に嘘をついてはいけない。そして、現実を歪めて見てはならない。

しかし、やってはいけないことが2つある。
この間違いは、素直でないことからくるものだ。
素直になろう。

本心ではカネと女が欲しいのに。
自分の心に嘘をつく。
または、カネと女が欲しいのに手に入らないからと言って、
現実を歪めて見てはいけない。

酸っぱい葡萄(ぶどう)の狐(キツネ)になってはいけない。
自分が手に入れたいものが手に入らない時、正しい態度とは、
本当にそれが手に入れたいのか?
自問自答することだ。

個人的には自問自答するまでもなく、
欲しくて欲しくて仕方がないという状況でない限り、
「決意に繋がる動機」
とは言えない場合が多い。

自分が手に入れたいものが手に入らない時、
カネなんてあっても仕方がない。
カネが稼げる人は特別なので、自分には縁がない。
などと、自分に言い訳をして逃げてはいけない。
女なんていなくてもいい。
風俗もあるし、エロ動画でも大して変わらない。
と、逃げてはならない。

自分の本能から湧き上がる動機を抑えたり、
その動機をやり過ごしてしまうとどうなるだろう。
長い人生の中で、再び自分の人生に立ちはだかってくる。
間違いなくやってくる。
女修行を経ずして金持ちになった時、
全てを失ってしまうような失敗を女が原因でやらかしてしまう。

仮になんとか逃げ切ったとしても、
死の間際、「ああ、女修行をしっかりやればよかった」
とか。「カネをもっと稼ぐよう努力すればよかった」
と言う、末期の後悔として総決算されるに違いない。

「我が人生に一片の悔いなし」
と、こぶしを突き上げて死ぬことはできぬのである。

ちなみに私もそうだ。「勤め人卒業」に関しては動機の形成が不十分だ。
なんとなく、「この課題に真剣に取り組まねばならぬ」という漠然とした意識があるものの、
勤め人+大家というスタイルでそれなりに生きられるので、
決断に至らない。
私の場合には勤め先からクビにされたり、
女で大失敗をしたり、家族に問題が発生して、
「やらざるを得ない状況」に追い込まれる可能性がある。

追い込まれるまで待つのか、
追い込まれる前に自分で自分を追い込んで攻めに転じるのか?
私は常にこのまま逃げ切れるという計算を優先している。

まあ、なるようになる。
あまり無理をして決断できない自分を責める必要はない。
現実を歪て見ておらず、自分に嘘をついていないならば、
焦ることはない。

苦しむだけが人生ではない。
また、苦しみもまた人生の醍醐味である。
長い人生、やるべき時に超えるべき試練が必ず襲ってくる。
大震災みたいなものだ。
その覚悟だけ持っていれば、
無理をすることはない。

その時に立ち向かう勇気と知恵を蓄えて、その時に備えよう。

つづく