無能な人間程学歴は有効だ

相続・教育・次世代

学歴なんて意味がない

確かに一理ある。
教育とは型にハマった人間を作るための制度であり、
労働者の育成を目的としている。

規則正しく働き、ルール通りに動く人間を育成する。
これはやむを得ないことだと思う。
社会においてほとんどの人は、組織に属するし、
組織の運営に関わる人はほんの数%だ。

大多数の国民をある程度使える労働者レベルに引き上げることは、
国家が提供する教育システムとして、そうせざるを得ないのだ。

さらに、東京大学を頂点とした学歴階級にも意味がある。
企業のトップ、官僚のトップを選抜するという意味で、
これも有効だ。

企業のオーナーは有能な手足を常に求めている。
この手足になり、適正な報酬を得る人生を送るのであれば
学歴はあるに越したことはない。

一方で確かに学歴が意味をなさない人も確かにいる。
芸能人、スポーツ選手、そして起業家。
これらの人々である。
この方向に進む人たちにとっては確かに学歴は意味がない。

では、親としては高学歴を取得するよう子女を促さなくてもいいのか?

まさに今、教育費という勤め人卒業を遅らせる問題を抱えているワタクシ。
「学歴なんて意味がない」
という議論には魅力を感じる。

学歴は無意味なので、子供に学歴獲得のための勉強をさせることは無駄だ。
それよりも不動産を増やして相続した方がずっと彼らのためになる。

何という魅力的なフレーズであろうか?
教育費を削減して不動産を買い進めたい私には国産の純粋蜂蜜の如く甘美だ。

しかし、これはやはり難しい。
それは以下の理由による。

① 子供が「芸能人、スポーツ選手、起業家」の側に行く人間か見抜くことは不可能。
② 私の意見がどうあれ、妻即ち女性は保守的なので、学歴獲得させる道を選ぶ。

「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず」
という言葉がある。
伯楽とは名馬を見抜く目利きのことだ。
駄馬なのか名馬なのか?自分の子供の能力を見抜くことは難しい。
仮に子供が駄馬で、学歴を与えないと、困ったことになる。

子供には人に使われる人生しか選択肢がなくなる。
にも学歴がないと、ホワイト企業を選ぶことができなくなり、
結局割に合わない仕事をさせられる勤め人となる。
駄馬みたいな子供だって、その10代後に天才を排出する可能性はあるわけだから、
ある程度生きて、死ぬまでの食い扶持を与えてやる必要があると思う。

よって伯楽ならざる私は、将来の見通しが立たぬまま、すべての子供に
学歴獲得のための教育を与えざるを得ない。
高校、大学と、進むにつれて、勤め人としての子供の適正が明らかになっていくであろうが、それを最初から見通すことは難しい。
よくわからないまま、教育にカネを突っ込んでいくしかない。

② 女性がどうあっても学歴の獲得のための教育をさせたがる。

①で説明をしてしまったので、②は①を補強する問題に過ぎないのであるが、
これも重要な点だ。
女性は常に保守的である。
モチロン例外の女性もいることは承知しているが、
ほとんどの場合、冒険よりも現状維持を選択する。
これは生物としての本能からくるものだろう。
詳しい話は書籍に譲るが、これもやむを得ないところだ。

かくいう私の妻も、ご多分に漏れず、教育にはコストを掛ける。
学歴獲得のための教育には惜しみなく投資していく。
私の年収が増加すれば、増加しただけ良い教育を与えるだろう。

私の稼ぎが高級勤め人(税務署認定済)であるから、
お私立中学を受験させるし、お高い塾にも行かせる。
仮に優良中小企業のオーナーレベルの収入があれば、
海外留学も必死で検討するだろうし、当然視察もするだろう。
結局使うのである。

結論

子供には教育費を使うしかない。
逃げることはできない。

勤め人+アルファの道を選んだ私たちは、
恐らくソコソコの金持ちにはなるだろう。
子供には学歴獲得のための教育をさせざるを得ないのである。

これを回避するには、
そもそも子供を作らないという選択をするしかない。

回避せず立ち向かうのが最も正しい。

「教育費など風呂に落とした涙の1滴だ!」

と言える程の強靭な財務を構築するのだ。
妻が教育費に1,000万円/年使うのであれば、
年収を5,000万円にすればいいのだ。
実にカッコいい。
そうありたい。

しかし私も駄馬の凡人。
なかなか厳しい道だ。
王道を歩みたいが、王道は険しい。
非凡な才能を以て産まれたかった‥‥。

教育費を支払うため、今日も勤める‥‥。

をはり