法治国家である日本

日々雑感

私は違法ギリギリが好きだ。

私はちょっとした悪事が好きである。
イタズラも大好きだ。
ちょっとしたルール違反を好む性向がある。
多分それを自慢したいという潜在意識もあるのだろう。

この性格はいかんともしがたい。
どこまでやったら相手が本気で怒るか?
ギリギリを楽しむような悪癖があるのである。

過去にも勤め人でありながら、
中小企業の役員を兼務し、
中小企業の役員の立場として小規模企業共済に加入。
そしてTwitter監視者のチクリによって、
小規模企業共済を強制脱退されたことがある。

詳細はこちらを参照

皆が知らないゲームの裏技を発見してドヤりたい心理なのだろうか。

ただ、私は明白なる違法には手を染めない。
違法と合法のグレーゾーンを見つけると
嬉しくなってしまうのである。

ただ、このような小悪人(こあくにん)の存在は社会にとって有益だ。
この小悪人の仕業(しわざ)によって、違法と合法が明確となり、
立法府は法律の穴を塞ぐ。
行政府は法律の範囲で運用を変える。
法律に誤りがあれば裁判所は小悪人に有利な判決を下し、
立法府に法改正を促す。

そう、システムの不備を突くハッカーの存在に似ている。
ハッカーが存在するからこそ、
システムはより強固なものに改善されていくのである。

私は法を学んだが、弁護士にはなれなかった。

私は弁護士になることができなかった。
日本の法曹養成システムに乗ることができなかったのである。

ある意味、私のような性格の人間を的確に排除したのであるから、
日本の法曹養成システムは健全なのかもしれない。
無論それでも法曹の中にも違法行為を行う人間もいる。
しかしあくまでもそれは少数派である。

ロースクール制度で、法律家の質は確かに下がってはいるものの、
一定の水準は保てていると思う。
さて、
違法合法スレスレが大好きな私に税務調査が入る。
私はこれを黙っていることもできる。
賢明な人間は黙るであろう。

それでもなお、私は情報を発信する。
なぜか。

カッコを付けるわけではないが、
私はそういう認識である。

私の行為は違法ではない。
違法性の認識はない。
私が経費だと思う経費を計上して確定申告を行ったが、
税務当局が疑義をさしはさみ、その修正を求めることは適正な法の運用であると言える。

収入があるにも関わらず、申告しないことはルール違反。
憲法が定める納税の義務にも反している。

意図的に架空経費を計上することも違法だ。
存在しない取引実態を偽装する行為は明白なる違法である。

過去私の行った、妻への外注費の支払。
これは実際に支払っていた。
しかし、税務当局により、家族内での外注は経費計上できないと否認された。
私は知らなかった。
それを正すのは適正な法の運用だ。
故意のない行為は罰しないという刑事法の原則にも添っている。
だから、修正申告の「要請」なのであり、強制ではない。
自主的に修正を促す。
ここまではOKだ。
しかし、自主的な修正に応じなければ、税務当局は
「訴訟」と言う手段を経て、否認し、執行する。

行政権が私権を制限するためにはわざわざ裁判という面倒なプロセスを経なければ強制できない。
この点、CHINAのような三権分立がない独裁国家であれば、
問答無用であろう。
うるさいから豚箱にぶち込んで財産没収だ。

この国は、社会は信用に値する

さて、森友問題、桜を見る会問題、政治の問題は数々クローズアップされてきた。
だが、政治家や行政、裁判所はそれほど腐敗しているのだろうか?

無論、菅政権の中小企業政策、消費増税、緊縮財政、T中平蔵らの
グローバリストが誘導する誤った政策の数々。
問題は多い。

しかしながら、
これらの政策も、あくまでも民主的なプロセス、
即ち我々国民が選んだ代議士が立法府で法律を作ったり、
改悪したりして実現されるのである。

悪法もまた法なり。
である。
民主的なプロセスを経て、法が作られ、執行されている。

行政権が権力を行使するためには、
法律の根拠を要するのであり、
その法律は国民自身が選んだ代表者により制定されるのである。

ソクラテスは「悪法も法である」
として毒入りの盃をあおって死んだ。
まさに、民主国家ギリシア市民としての模範的態度ではある。

私のような小悪党(こあくとう)が適正に発見され、
罰せられるのは、社会として望ましい。
私は前回は事業所得の否認という、指導を受けた。
それは二度としない。
今回は不動産事業における経費計上の在り方、という指導を受けるのである。

これは民主的な手続によって制定された、
法律の適正な執行である。
私はこれを甘んじて受けるのである。

政治家の問題を追及するマスメディアの報道だけ見ていると、
あたかも日本は腐敗しているように映る。
しかし、
そもそも独裁国家では報道の自由など存在しない。
人民は自由に発言することもできない。

安倍元総理が独裁者であろうはずがない。
彼は独裁者とは程遠い。
まさに日本の民主主義を体現している存在だ。

この日本という国家が実現した民主主義は確実に成長・発展しているし、
日本が法治国家たることは100%とは言えないまでも、
信頼に値するのである。
それは私が小規模企業共済を解約させられ、
今回税務調査を受けることで証明されていると言えよう。

確かに「それでも悪が見逃されている!」
という事例もあるだろう。
レバノンに逃亡した、カルロス・ゴーンというインチキ経営者の例を見れば明らかだ。

しかし、
その問題があり、今後、検察もしっかり対策を立てるだろう。
おなじミスが起きないように対応していく。
これは国家としての成長であると思う。

欧米から輸入された民主主義であるが、
アジアの中で最も民主主義が成功しているのは日本であると、
私は誇りを持って言える。

私のような数百万円程度にしかならない問題児であっても、
見逃さない。
行政はしっかり日本国民を公平に扱っているのである。
素晴らしいことだ。
私達の国は信用に値するのである。

ルール違反をせず、正々堂々と資本主義を楽しもう

日本の資本主義には
合法 - 違法の間にトテツモナイ幅がある。
この幅がまさにルールに沿った自由だ。

完全なる自由であれば、
ヤクザ等反社会勢力が権力を握るがそれはできない。
完全なる統制国家であれば、
中国のように言論は弾圧するし、チベットを侵略し、ウイグル人を排斥する。
香港も奪還して民主化を妨げる。

その中間が民主国家である。
その民主国家のルールに沿って、私たちは自由を謳歌する。

ルールの範囲内に存在する「常識」「暗黙の了解」を逸脱しよう

しかしルールの範囲内に
「ブラック企業」が存在する。
ルールは破っても被害者が泣き寝入りすると、
違反者に罰則が適用されない。

私の税務調査の場合には被害者が国家そのものなので、
行政が動くが、
民間企業と私人の場合には、被害者たる私人が動かないと何も起きない。
ブラック企業は閉鎖性を武器にルール違反を堂々とやるのである。

電通で起きた自殺、
法を破った町地時間労働などは、
インターネットによって違法性が社会に明らかになった。
しかし、昭和時代には誰も私人が被害を訴えなかったので、
長時間労働は「常識」になっていた。
家庭を顧みずに労働することが「善」ともされてしまったのである。

そして「暗黙の了解」として、
日本人は自ら労働にその身をささげてきた。

今、私も経験してきた、
昭和的な滅私奉公は瓦解を始めている。
法が適正に運用されようとしている。
今まで曇っていた社会の目に乗せられた眼鏡。
その眼鏡こそがネットである。

話がずれたので戻す。
いまだに存在する「常識」「暗黙の了解」その典型的事例が、
サラリーマンは給料で生きる、副業禁止、マイホーム、結婚、子供、
新車を買ってバケーション。
これらは法によって定められたものではないものの、
私達の「幸せ」の常識として存在している。

これらの常識に従うと、
間違いなく経済的に失敗する。

これらの常識から外れて、
勤め人+大家になる。
(無論、不動産屋のセールストークにホイホイ従う大家であってはならぬ)
これが、経済的に成功する秘訣である。

常識には従わない。
でもルールは破らない。
この範囲に自分を身を置くことが大事だ。
私は今回若干ルールの外側に足を出してしまった。

足を叩かれてしまったので、
足を引っ込める。
裁判所という場所で足を引っ込めない自由を主張することもできるが、
私は足を引っ込めて、今後はルールの外側に足を出さないようにする。

チョット足が出ただけなら指導で済むが、
身体全体をルールの外に出してしまうと、
一発アウトである。

常識の外側に立ちながら、なおかつルールの枠内で遊ぶ。
資本主義、民主主義、法治国家というルールの元、
大いに人生を謳歌したいと思ふ。

をはり