明智光秀、限界勤め人説

人間関係

1582年6月1日 時は今 雨がしたしる 五月かな

1580年 信長は石山本願寺に巣食っていたいた蓮如を追放せしめるが、
同年、織田家の重臣、退き佐久間の異名を取っていた佐久間信盛が追放される。

何やら明智光秀という人は、稀代の天才という解釈をされることが多いが、
私としては、別な考えを持っている。
1580年に佐久間信盛が追放されたとき、光秀は53歳である。
この53歳という年齢。同世代の佐久間信盛が追放されたことが、
光秀に「次は俺かも」と思わせるに十分ではなかったか?
私はそう思う。

実際、1578年の第二次木津川口の戦いで、毛利水軍を鉄甲船で粉砕したことで、
石山本願寺の落城が決定的になって以降、信長の天下はほぼ確定したと言ってよい。
このあたりから、信長がそれまで我慢していた本能というか、
本質というか、本性である、パワハラ気質が爆発していく。

浅井長政の裏切りから、信長包囲網、信玄のプレッシャーまでは、
よく自制していたのだろうが、これらを打破して、天下布武の完成が見えたあたりから、
自制が効かなくなっていった感じがする。

いよいよ1580年に石山本願寺を攻略した時にそれが爆発して、
佐久間追放に至ったのであろう。
更に1582年1月からの甲州征伐では、織田家が通った道は武田家の女も子供も含めて
皆殺しにされたという。

1582年、55歳の明智光秀としては、「俺絶対殺されるか追放されるわ」と、
思っていただろう。
今の55歳と言えば、役職定年で会社から追放されるのを待っているような
執行猶予期間である。
当時の55歳は「人間50年」と信長自身が好きで謡っていた通り、
老後に近い。

天下国家の為でも、綿密な計画でもなく、単に、クビになりそうだから、
社長を後ろから刺した。
というだけ。
これが本能寺の変の本質だと思っている。
どうせ追放されるなら先に討つ。
というだけ。
私はそう思っている。

実際柴田勝家も、羽柴秀吉も、徳川家康もビビっていたと思う。
次はおれじゃん?
という恐怖。

パワハラ会社みたいなものだ。
光秀がやらなくても誰かがヤった。

要するに光秀は天才でもなんでもない。
限界勤め人の最後の悪あがきが成功しちゃっただけなのだと思う。

棚ぼた秀吉も同じ道をたどる

パワハラ上司が殺されて、
秀吉は実はガッツポーズをしたと思う。

うわーマジほっとしたわ。と。
黒田官兵衛が「天下は殿のものですな」と、
本心をズバリ言い当ててしまい、その後、九州という遠方に置かれるようになったのは有名な話である。

ここから天下統一するまでの秀吉は、実に輝いている。
しかし、天下一統の後は、信長同様に、
恐怖政治を行っていく。

自分を抑圧する全てがなくなってしまうと、
人は本性が暴走してしまうのかもしれない。

そこを行くと、60歳まで苦難の道を歩まされた家康公は立派である。
ただ、60歳まで抑圧され続けたので、
60歳も過ぎて暴君化する元気もなくなっていただけなのかもしれないが。

人間、適度に抑圧されていた方がいいのかもしれない

家康公は1600年に実質的に天下をその手に納めた後も、天下を固め、
将来のお家断絶まで考慮して、紀伊、水戸、尾張に別家を建てさせるなど、
まさに250年の徳川泰平の世の足場を固める。

自分の死期が見えた1614年には最後まで抵抗した豊臣家をしっかり潰して、
まさに盤石である。

信長も秀吉も40代という、若さで頂点を極めてしまったが故に、
本能、情動に勝てなくなって、人望を失っていったともいえる。

そう考えると、
私のような激情型の人間も、50代後半まで、
「人生とは重き荷を負うてゆくが如く」
しっかりストレスにさらされた方がいいのかもしれない。

家康公は秀吉に負けて、関東に追放される。
この時49歳、ここから秀吉政権に臣従すること10年である。
まさに臥薪嘗胆だ。

神君家康公が50歳から60歳まで関東に追放され、
関東平野を開発していたことを思えば、
私のような小物が40代ソコソコで独立起業というのは本当におこがましい。

まだまだ、勤め人として秀吉に頭を押さえられながら、
関東平野という広大で将来性のある土地(不動産)を開発していかねばならない時期なのかもしれない。

をはり