人生に敷かれた「平均的」というレール
勤め人大家でいずれ勤め人を卒業するという戦略こそ目指すべきであるが、
誰もが皆そのゴールにたどり着けるとは思えない。
そういう私自身もまだまだ苦戦している。
今日は苦戦の理由を考察したいと思う。
どこに産まれても勤め人養成機関である学校でそれなりの成績を取って、
それなりの大学に進学をすることになる。
東京・大阪・名古屋・福岡などの大都市に出てきて、ソコソコの企業に勤め、年収が上がってくると結婚もする。
結婚したら子供ができることもある。
子供ができたら妻はそれなりの教育費を子供に投資するし、
家も欲しくなる。
車だって欲しくなるかもしれない。
ソコソコお勉強ができる私のような人は掃いて捨てる程いるだろう。
それらの人の足元にはレールが敷いてある。
勉強→勤め人→結婚→養育→持ち家‥‥
と、さまざまなチェックポイントがあり、
これを通過するように制度がつくられているの。
これ自体は悪いことではない。
貧困にあえぎ、日々生きることだけで精いっぱいという国家に産まれれば、
このような平均的な幸福は大いなる幸福となる。
平均のレールに沿って生きることも幸せであることは否定しないのである。
そういう私も、平均のレールに沿って、ある程度の成功を納めたのだと思う。
そして今後もこの平均のレールに沿いながら生きていくことになる。
平均のレールから敢えて外れる
平均的な人生を生きれば
「持ち家」「結婚」「子供(養育費)」「親の介護」「車」
など、平均的な幸福のためのアイテムを買うように求められる。
平均的ではない「勤め人早期卒業」という道に踏み出すためには、
平均的な人間であることを「あえて」やめる選択をしなければならない。
上記の平均的なアイテムは実は、取得しなくても全く問題がないアイテムである。
親の介護はどうしようもないかもしれないが、
これはカネで解決すれば良いとして。
「持ち家」は賃借するという作戦で回避可能。勤め先の借り上げ社宅制度などを利用したら、さらにコストが抑えられる。新築の持ち家を回避して、地方の安い中古住宅を買うことも1つの回避策だ。
「結婚」も必要か不必要かと言えば不要だ。
恋愛に対する能力を高めることで、異性に不自由しない人生は送ることができる。
「結婚」というカードを切らなければ異性を手に入れられないような魅力のない人間であることがまずもって問題なのである。
そして結婚カードで得た異性との関係と言うのは得てして幸せになることができない。
「子供(養育費)」も不要だ。
公教育でコストを抑えられれば、良い。
国公立の大学に進学できないような勉強ができない子供もいるが、
その場合には手に職を付けて副業もさせればよい。
「車」は激安中古車で済ませれば良いし、都市に住むのであればそもそも不要だ。
「平均的」な「常識」をコストの安い他の手段で代替し、
浮いた資金で「ビジネス(商品)」を買い進めるのである。
私のような無能な人は「大家」がいいだろうし、
商売人の才がある人は他の小商い(こあきない)でもいいだろう。
お勉強ができた中途半端な秀才が陥る罠
むしろこの罠の回避は私のように中途半端に勉強ができた、
秀才の勤め人程回避が難しい。
親、会社、友人からの結婚に対する妙な圧力は確かにある。
結婚していないと何だか社会人としてダメなんじゃないか?
という空気の圧力である。
空気が読めて先生や上司から評価される人生を送ってきた人ほど逃げがたい。
そして結婚して平均的な配偶者を貰ってしまったら、
配偶者からの圧力もある。
「家」「車」「教育」に対する投機行為をするよう、
一番側にいる配偶者から圧力がかかるのである。
私は「家」「車」に関してはその圧力をはねのけたが、
「教育」に対する投機行為に関しては妻の圧力に屈した。
3人も男児に恵まれたのは良いことであるが、
幼児から始まり、大学まで続く固定費の激増は大いに私の財務を毀損する。
勉強する子供は投資しようがしまいが勉強し、勝手に一流大学に進む。
勉強しない子供も投資しようがしまいが学業は振るわず、他の道へ進む。
しかし、
遺伝子がより繁栄しようとして子供には親の財務を毀損してでも投機させてしまうものなのだ。
特に女性にはその傾向が強いと思う。
生涯に産み、育てられる数が少ないことがその理由だろうか。
結局のところ、お勉強ができて、良い企業に勤めて、高い年収を確保しても、
「家」「車」「教育」と言ったものにより高い投機をさせられてしまうため、
秀才も結局、経済的にはお勉強ができなかった人と似たようなレベルになるのだ。
多少高い家、多少高い車、多少良い教育が手に入るだけであって、
似たような平均のレールの上に置かれてしまうのである。
いずれもオモチャの勲章である(by聖丁)
勤め人は自由な金持ちになることができない
聖丁は若くしてこの構造を喝破した。
そして平均的レールの罠に陥ることなく、自分の人生を手に入れた。
一方で私は、一流企業に入れず、大学の同級生たちの高い年収に追いつくことを目指して、
ダブルワークと大家を始めた。
この差は大きい。
私が勤め人という土俵で泥にまみれて相撲を取っていたのに対して、
聖丁はそもそも相撲を取ること自体が誤っていることを喝破したのである。
だが私は恥じない。
三國志で、司馬懿が諸葛亮から何度も計にかけられたが、
「孔明のような者に謀られるのは恥ではない。」
と言ったという。
ウサイン・ボルトに「走り」で勝てないことを悔やむ必要はない。
自らの能力を正しく見極めて、その分を超えずに着々と歩む方が重要である。
さて、話はそれたが、
勤め人では金持ち(時間持ち)になることはできないことは明らかだ。
平均的という罠を回避して、人生を取り戻そう。
私は大いに誤ったが、誤ることは恥ではない。
誤りを認めず更に誤る。
これを愚という。
つづく