大家は最終的に無刀に行きつくのか

考え方

剣豪宮本武蔵の至った境地

宮本武蔵と言えば、天下無双。
天下無双の宮本武蔵が行きついた境地である「無刀」。
最終的に剣を極めると剣が不要となる。

丸腰である。
丸腰で相手の武器を奪うということもできるらしい。

「〇道」という「道」を極めてしまうと、
終局的に「心」の問題に行きつくという話であろうか。
野球道、バスケ道、サッカー道も最後は「心」に行きつく。

あらゆる投資
不動産道、株式道、FX道も究めれば「心」の問題に行きつき、
最終的に極めると不動産も、株式も、金もいらないということになる。

求道者「加藤ひろゆき先生」も最初はアパートを探し、
開眼して「戸建」の道を発掘した。
さらに「教会」「商業用ビル」などを体得。
最期は「平地」「更地」のステージに至っている。

今ではラジオという道に達し、
そろそろ不動産自体を不要とする大家道を究めてしまうのではないかと
心配している。
私はまだ、戸建から抜け出していない。
まだまだ道半ばである。

大家道を究めると、家が要らなくなる。
家が建っている、底地自体から収益を上げる。
つまり「無家」である。
大家道を究めて結果が、家は要らぬ。
この「無家」の境地に至るのであろう。

無家の形態としては
「レンタルスペース」
がある。
賃借型の「民泊」も似ている。
土地と建物を借りて、
賃料よりも高収益で運用する。
これも無家の形態である。

こうなってしまうと、
オフィスを賃借してビジネスをする商売に限りなく近くなる。
ただ、無土地、無家の形態の場合にはビジネスという側面が強くなり、
労働力の投入が必要になる。
種銭作りのためには初期ステージにおいては止むを得ないが、

大家道における無家の境地ではない。
種銭を作り、貸家を買い、ある程度増えたところで、
貸地に行きつく。
しかし、究極の大家道とは、無である

無家に至るために必要なこと

我々はなぜ、経済的自由を求めるのか?
それは魂の解放を求めているのである。

他人のクダラナイ命令に従って生きる、
勤め人道を抜け出したいという気持ちで、投資を始める。
投資を始めるに当たっては、生活を質素にして、
給与から生活費を払った後の手残りを極大化させる。
そうして爪に火をともすように蓄えた資金を、
不動産に投資していく。

不動産に投資していくと、
いずれ給与を不動産収入が超えるだろう。
その時、私たちは自由を買い戻したことを実感する。

自由を手に入れた大家は、
自由を手に入れてもなお、貯蓄を続ける。
質素な生活を続け、もはや自分の寿命を超えて生きられるだけの資産、
収入を手に入れる。
それでもなお、質素な生活を継続するだろう。

その時である。
私たちは無家の境地に至る。

自由を回復し、
一生を自由になるだけの資産と収入を手にする。
全ての貸家を手放して、3億円の現金を口座に積む。
もはや一生自由に生きられる。

まさに無である。
無刀であり、無家である。
これを株式で成し遂げたら、無株である。

もはや株も家も何もいらない。
無に帰した。
と言うことである。

私も全ての不動産を売却すると124百万円程のキャッシュが手に入る。
これを年300万円ずつ費消していったら、40年生きられる。
85歳までだ。
年金を加えれたら十分なキャッシュである。

これを手放した時、
手放すことができた時が無家であり、
大家道のゴールであろうと思う。

しかし、人の欲望は際限がない。
私も俗物であるから、
貸家を無尽蔵に拡大し、
あまつさえ、子孫にまでそれを受け継がせようとしている。

まさに、道半ばである。

私はおそらく無刀の境地には至ることが出来ずに死ぬ。
だが、それでよい。
道を究めんとして道半ばに死すも、
道を究めんとした証である。

大家道を進む畜生ども

大家道で、資産規模を拡大していくというのは、
畜生道である。

大家は所詮、金貸しの亜種である。
と、喝破したのは聖丁であったが、
まさに、我が意を得たりである。

しかし、大家道を究めるためには、
この資産規模の拡大の誘惑を限界まで突き詰める必要がある。
3億円で突き詰めたと言える人がいるかと思えば、
10億でもまだ飽き足らない者もいる。

際限ない拡大を続けたある日、ふと、気づくのである。
「この先に何があるのだろうか」
と。

ナンパ道を突き進む男性。
会社経営道を突き進む男性。
筋トレ道を突き進む男性。

求道者は男性が多いのだが、
ふと気づいてしまう。
この先に何があるのか?
と。

仏陀が悟りを開いたのも、
厳しい修行の末に死にかけながら木陰で休んでいた時に、
少女が差入れてくれた食事を口にした瞬間だと言う。

大家道も然り。
資産規模は、欲望に従って、満足するまで拡大するしかない。
中途半端でやめたら後悔が残る。
限界まで突っ走った方が良い。

私の場合には、お勉強コースの延長である勤め人道も中途半端に走っているし、
大家道も中途半端に走っている。
家族道も並走させている。

様々な道を並走させている。
一点突破で行く人も入れば、
複数の道を並走させるタイプもいるのである。

どれか正しいと、
一概にいうことはできない。
ある人は勤め人道を早々に切り捨てるだろう。
またある人は40歳で見切りをつける。
大家道を切り捨てて、FX道、アフィリエイト、転売道に進む人もある。

結局人それぞれ、寿命が尽きるまで、
自分が選んだ「道」を突っ走るしかないのである。

SATの選んだ道

まずは勤め人道である。
本当は法曹になりたかった。
という前提があるから、あまりこれにはこだわりがない。

いわゆるハイスペと言われるクラスには成り上がったと思う。
しかし、上司とか役員には興味がない。
他人の資本の元で使用人としてだけ、生きるのは私の主義ではないらしい。
私の勤め人道は既に終わっている。
最期に、世話になった社長が勇退する時、
もしくは辞めてくれ。と言われたら、終わる。
ここまでである。勤め人道は終わりが見えている。

次に不動産道である。
これは今後も拡大させるだろう。
私の家族道と密接にリンクしている。
息子達3人の人生の難易度を少し下げてあげるために続けるのだと思う。
私と妻だけの人生であれば、現状維持で構わんのだ。
まさに道半ば。
終わりは見えない。
80歳までには完成させたい。

3つ目が家族道である。
これはSAT一族の永続的繁栄という意味で、
死ぬまで終わらないだろう。
そもそも3代先は100%見ることができぬ。
家康公も家光までしか、見届けてはいない。

4つ目もある気がする。
勤め人道から降りた後に進むであろう。
社長道かもしれないし、
政治道かもしれない。

いずれにしても、不動産道、家族道ともう1つの道。
三本の道を同時に歩むような気がしている。

来年はまだ勤め人を続けるであろうか。

をはり