共に起業した友人と再会

ビジネスの話

26歳で友人と起業した話

昔々の話になるが、
私がまだ26歳の時の話である。

当時、私は司法試験を諦め(25歳)、
サラ金の子会社に就職。
上司の給与水準やしみったれた生活を見て、
自分の将来に絶望し、
投資用不動産会社に転職した。
しかし、あまりにブラックな労働環境に驚き、
再び、ホワイトな借金取りの会社に転職した時だった。

外資系金融の外注先として借金を取りたてる日々ではあったものの、
仕事時代はホワイトである。
法務省の認可法人でもあるし、
取締役には弁護士、役員になるには警察のチェックを受けなければいけないという業態なので、コンプラには厳しい。
まさに低給与でホワイト労働な職場だった。

私は「勤め人としてハイスペになるのはやめよう」
と、2社を経験して悟っていた。
だって、外資系金融の勤め人の人たちは、確かに年収3,000万円もらっていたようだが、
あまりに苦しそうで、常に眉間にシワが寄っていて、
寝不足、過労、パワハラに耐えていたように見えた。

誘われれば転職もしたであろうが、
私はそのルートを諦めていた。

「とにかく貯金を貯めて、不動産を買う」
そう決めていた。

しかし、貯金はゼロだ。
カネがない。

そんな時、大学時代からの友人がボイストレーナーとして個人事業をやっていると
飲み会の席で話になった。
聞けば、すでに毎日レッスンが入っていて、
休む暇がないと言う。

私は彼のビジネスが儲かることが直感で理解できた。
「それは、起業して、トレーナーを採用して、その人達にやらせるビジネスにすればいい」
と、提案したのだ。
それから私と彼で事業化したのである。

私は勤め人をしながら、法人の総務、経理、営業事務を行った。
最初は数万円だった報酬も、最後には20万円近くまで増やしてくれた。
友人には足を向けて寝られない。
勤め人としては年収500万円程度だったが、
しみったれた生活を心がけたので、年収は700万円ほどあった。
さらに友人から受け取る報酬は、
事業所得として確定申告をし、必要経費としてモリモリに申告していたので、
税金は1円も払っていないし、
ムスコの保育園料金も月数千円であった。
(ちなみにその後、税務署に指摘されて追徴課税された)

おかげで、2011年以降毎年1件ずつ不動産を買うことができたのである。

友人の企業との別れ

私と友人との起業はうまくいったのだが、
私も30代に入り、転職。
勤め人の給与は800万円となった。
さらに、不動産からも300万~400万んの収入がある。
こうなってくると、
起業した会社も規模が大きくなってしまい、
副業として回すことができなくなってきた。

私は33歳で最後の転職をして、
年収はついに総合商社かテレビ局員並みに増えた。
ここで私は副業としての友人と作った会社を離れる決意をした。

勤め人+副業+大家という3本足打法から、副業を捨てたのである。
今思うと、今の企業には転職せず、3本足で走り続けても
今以上に稼げた可能性が高い。

そんなわけで私は今に至るというわけだ。
まあ色々あった人生だ。

結局友人は、自分の弟を入社させて、
ファミリービジネス的に組み替えて、
今も元気に経営している。

医者、パーソナルトレーナーなど、
個人として多数の顧客を抱えるタイプの商売は、
自分の時間という制約を超えてしまうと、
後は「単価を上げまくる」か「人を雇ってやらせる」
という方向性しかない。
規模が拡大しやすいのは組織化である。
SNSやYoutubeを使って拡大する方法も今はあるが、
当時はまだ、動画で大規模に拡大する方法はなかった。

時間とカネ、子孫繁栄

私も友人も時間、カネ、子孫繁栄を手に入れた。
(私は時間という資産がかなり少ないが)

お互い貧乏学生から見事に成り上がったとは思う。
私も友人と呼べる人物は彼しかいない。
勤め人の友人は知り合いでしかない。
話も合わん。

むしろ投資先企業の青息吐息経営者の方が話が合う。
勤め人一本鎗の人間はうわっつらの付き合いでしかない。
それは仕方のないことだし、
私も勤め人としてはそのようにして生きている。

うわっつらで生きて、勤め先を追い出されて、
孤独に老後を迎えて死ぬ。
それが勤め人の人生である。

私もそろそろ企業家になれる最終年齢と言える段階に差し掛かってきた。
友人の生き方を見て、そろそろ考えを改める時期なのかもしれない。

つづく