私の人生のアガリっぷり
私は欲望が低いので、
高年収のホワイト勤め人。
妻と子3人。
大家。
という現状の水準でかなり満足した人生だ。
もっと自分が欲深い人間だったら、
もっと金が欲しい=起業、転職 と言うステップに進めるだろう。
女に対する欲望が深ければ
より美しく、より若い女と多数関係を持ちたい!
子供もたくさん作りたいという方向に踏み出せるだろう。
大家に関しても月100万円程度(それも満室)で満足できず、
さらに大きなレバレッジ、巨大な物件!と進んでいくかもしれない。
名誉欲もあれば、
政治家に立候補するかもしれぬ。
欲と言う表現がなくても、
日本をよくしたい!
たくさんの人を幸せにしたい!
という心からの欲求があればこそ、
前に進めると言うものだ。
実際私は400万円勤め人という立場には激しい怒りを感じていたが、
年収3,000万円を超えてしまうと、
「あれ、俺は何に怒っていたのだろう」
と、怒りは霧散してしまった。
欲を言えば、子供が不登校にならいで欲しかったし、
全員東大に行くようなことを期待しないでもない。
ただ、息子とはいえ、所詮は別人格で他人とは言わないまでも、
私が介入すべきことではない。
この子に対するエゴというものも、
読書(アドラー心理学)によってシュッと、消えてしまった。
怒りという湧き上がる感情は厄介なものではあるが、
自分を前に進める大いなる推進力であることもまた事実。
最近怒りが湧かないし、湧いても行動に結びつくほどでないことが悩みだ。
カネと女と時間という人生のテーマを小さいレベルで
実現してしまった私の人生はまさにアガリである。
妻の欲望も小さい
妻は義父の不動産を相続して私と同じ程度の年収ができた。
稼ぐ旦那というものは実に気分が良いものであり、
妻が義父の不動産を相続するまでは、
ある程度まとまった金額を「ホイ」と妻に渡すことは快楽であった。
貴様ら俺の稼ぎのおかげで何不自由なく生きやがって!
というオスとしての達成感なのかもしれぬ。
その感覚がないわけでない。
まあ、壮年期の男は稼ぐ。
壮年期の女は子を育てる。
少年期の子供は学習し、成長する。
それぞれの役割が異なるだけで、
別に誰がエライとかそういう話ではないのだが、
それでも平均以上に稼ぐ俺様という立場はオスを盛り上げてくれる。
しかし、
稼ぐ俺様に対して、
「義父の不動産を相続して経済力を得た妻」
こうなってしまうと、私の立場は大いに危ういのである。
誰のおかげでメシが食えると思ってんだ!
というセリフは、虚空に空しく響くだけになる。
「いえ、別にあなたのおかげではありませんが・・・・。」
と返される悲しさ。
稼いでいることは実は思っている程価値はない。
番犬が吠えるからと言って威張ってはいけないのである。
話はそれたが、
最近はそんな事情で家庭の中における自分の立場が相対的に低下している。
私は3,000万円の収入があるかもしれないが、借金もある。
一方妻は相続した不動産からの収入であり、負債はない。
借金付の3,000万円と無借金の2,000万円では五分五分(いやむしろ分が悪い)である。
妻もそれほど浪費家ではない。
が、子供の教育には惜しみなくカネを使う。
女としてこれは正常なのだろう。
かくして
私も妻もそれほど浪費家ではないが、
年収は二人とも高い。
そんな状態になっている。
私が死んでも別に家族は困らない。
そんな状況も、私の人生アガリ感を加速させている気がする。
統一教会にすがりたくなる人生
私はツイているのかもしれない。
統一教会に入信する人の中には、
この世の不幸を一身に背負ったような人がいる。
夫に先立たれて、子供は病気、自分も病魔に侵される。
など、努力だけではどうしようもない不幸というのが世界にはある。
そんな時に統一教会的な宗教にすがりたくなるのだろう。
そんな人々からしたら、
私の人生は恵まれているのかもしれない。
が、
しかし、
ところが、
どっこい
私は虚無感を感じるのである。
アガった人生、目指していたものが手に入った人生、
経済的安定、健全に産まれた子供達。
不満のない仕事…。
これを手に入れようと思って生きてきた。
それは間違いない。
だが、何かが足りない。
そう、司法試験を諦め、
低給与の勤め人から出発して一流企業に入社した友人達に
倒錯した劣等感を抱き、勤め人大家で逆襲を決意したあの頃のような怒りにも似た感覚。
また、全てを捨てて同じことをしたいとは思わないものの、
それに代わる何かの感覚が欲しいとは思う。
とりあえず寄付とボランティア
ギバーとして人に与えることでこの状態が打開できるかもしれないと、
寄付とボランティアを試みた。
寄付に関しては特に何も感じなかった。
1万、2万と寄付をしてみて、感謝されるけれども、自分に感動はない。
ボランティアも疲労感と少々の達成感はあるけれども、自分に感動は起きない。
もっと大きな他者への貢献が必要なのかなと思う。
最大の貢献感を得るには最大の貢献をしなければならぬ。
死を待つまでの時間つぶしをするには時間があり過ぎる。
引き続き考える。
つづく