生きづらいのは自分のせいだ

考え方

女性が生きづらいのは政治のせいか?

女性活躍が進まない日本の現状を、
政治のせいだとする意見があるらしい。

また、芸能界の女性にはセクハラが蔓延している、
MeToo問題も一世を風靡したトレンドである。

自分を被害者に仕立て上げるビジネスモデルも健在だ。
アドラー曰く、世界は驚くほどシンプルで、
人は誰もが今、この瞬間から幸せになれる。

私がアドラー心理学を知った時点で、既に幸せだったので、
この論理は納得できるものだったが、
20代でこの説を聞いていたら、
反感を持ったかもしれない。

同様に女性が生きづらいのは社会のせいでもなんでもない。
事実、女性の中には現代を幸せに生きている人が多数いる。
幸せを感じている女性(男性も)は声を大にして
被害者になったりしないので、
目立たないだけである。

逆に女性の不幸を声高にアピールしている、
その女性が不幸なのであり、
それが全女性の問題かのように騒ぐのは大いに間違っている。

ロスジェネ世代の受難

私はいわゆるロスジェネ世代である。
バブル崩壊後、日本は失われ続ける歴史に突入した。
いわゆる就職氷河期世代である。

私が就職活動を迎えるころは
都市銀行が20近くあったものが、
4つか5つの金融グループに集約されていた。
就職先が大幅に減ったということだ。

この事実をあげつらい、
私は不幸になることもできる。
しかし、
私は自分を不幸にして他人から同情を集める人生を選ばなかった。
年収300万円から這い上がる方法を編み出し、
ダブルワークを行い、不動産を買った。

結果、豊かなサラリーマンとなった。

炎上しそうな言い方であるが、
震災の被災者であろうと、
戦争で両手を失った被害者であろうと、
不幸なのは自分のせいなのだ。
自分が自分を不幸だと定義して、
それを利用して援助を貰おうという目的があるからこそ、
自分を悲劇の被害者に仕立て上げるのだ。
可哀そうな私、そして悪い誰か。
の、構図である。

不幸な人間への対処方法

不幸な人間への対処方法は、
同情しないことである。

不幸な人間は、
自分が不幸でありたいから、
不幸なのである。

幸せになることを拒否しているから不幸なのだ。
仮に政府でも世界の富豪でも、
彼らを助けたとしよう。
それでも彼らは不幸であり続けるだろう。

彼らが不幸なのは誰のせいでもない。
自分のせいだ。

だから豊で幸せな私達は何も負い目を感じる必要はない。
今、自分の幸せを楽しみつくせばよいのである。

彼らが不幸なのは彼らの課題。
私達が幸せなのは私たちの課題。

しかし、不幸な人を助けるな。
と、言っているのではない。
助けても良い。
助けるのは私の課題である。
助けたことで貢献感を得て幸せになることもできるだろう。
相手がそれで不幸から脱出できるかできないかは問題ではない。
その援助によって自分が幸せだと感じられればそれでよい。

育児を手伝わない配偶者に怒る共働き夫婦

家事も育児もしない妻に怒る夫。
育児を手伝わず仕事ばかりに逃げる夫に怒る妻。

これも問題の本質は一緒だ。
夫婦は他人である。
そもそも結婚したのは自分のせいだ。
心の中で怒るのは100歩譲って理解するが、
それをインターネットに発信する段階になると、
これは病気である。

「悪い妻(夫)と可哀そうな私」である。
無論私自身もこの構図に陥ったことがある。

相手と前向きな愛の関係を維持していこうとするならば、
話し合うべきはTwitterではない。
配偶者である。
それが合意に至らないのであれば、
自分を変えるしかない。
相手の存在が不要だと思うのであれば離婚すれば良い。
夫婦には離婚というオプションが与えられているのだから、
さっさと行使して、次の前向きな人生へと進むべきなのだ。

SNSで愚痴って
同情を買おうとする人間は「自立」ができていない。
パパとママに認めて欲しくて
泣いている赤ん坊と同じである。
未だに親に甘えている子供なのだ。

子供が結婚して子供を作っている。
そして不幸になる子供が後を絶たない。

相手に対して愚痴を言っている夫婦は要するにガキなのだ。
さっさと離婚して一人で生きる訓練をし直すがよい。

をはり