武田 勝頼

戦国武将研究室

完全に趣味ですが、好きなので毎日更新とは別に1日1テーマ研究していきたいと思います。
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武田勝頼
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1546年 ~ 1582年(没年36歳)

彼が誕生した1546年はこんな状況
信長の野望(大志)で一番カッコよくなったと評判です。

統率 85 武勇 87 知略 72 内政 55 外政 60

なぜ四男で家督を承継したのか

甲斐武田氏20代当主にして言わずと知れた戦国最強の大名、武田信玄の後継者。

四番目の子供ですが、彼に後継者の役が回ってきたのはなぜでしょうか。

武田信玄の息子達

長男 武田 義信(よしのぶ) 1538年誕生~1567年11月19日没
〇武田義信の妻は今川義元の娘です。母親は三条の方(公家)。
今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで打ち取られ、その後
武田信玄が駿河侵攻をするのに反対し、信玄への謀反の疑いもあって殺されたとあります。
しかし武田義信が結婚したのは13歳で、それも政略結婚ですからね…。
いずれにしても駿河侵攻と時を同じくして殺されたというのは間違いありません。

二男 海野 信親(うんの のぶちか) 1541年誕生~1582年4月3日没
〇どうやら二男は盲目だったようですね。母親は義信と同じく三条の方。海野家を承継しますが、出家して竜芳と名乗っていたようです。死亡は天目山の戦い(1582年3月11日)に織田信忠に殺されたとも勝頼の死後自害したとも言われています。

三男 武田 信之(たけだ のぶゆき) 1543年誕生~1554年没
〇三男も三条の方の息子ですが、11歳で夭折しています。

と、言うわけで、武田義信事件の後、
勝頼が家督を継ぐことが決まったようですね。

武田勝頼はなぜ父親(武田信玄)の宿敵、上杉謙信と同盟できたのか?

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武田信玄は5回にわたり上杉謙信と川中島で合戦をしています。
中でも最も激戦とされた第四次川中島の戦い(1564年)当時、諏訪四郎勝頼は19歳ですが
参加していたかどうかは不明、叔父である武田信繁や重臣山本勘助も討たれているのに
なぜ上杉謙信と同盟に至ったのでしょうか。

1573年に信長に京を追放された室町幕府第15代将軍足利義昭は毛利家の庇護下にあったようです。
1576年に足利義昭を仲介にして上杉謙信と同盟を締結。
前年の1575年5月21日『長篠の戦い』において大損害を受けたため、上杉、北条と和睦して
対織田、徳川への備えとしたかったようです。

しかし、上杉謙信と言う人物は信玄には塩を送るし、息子の勝頼とは同盟を結ぶし、義将と呼ばれるだけのことはありますね。(2018年9月26日加筆)