松平 信康(まつだいら のぶやす)
生誕 1559年4月13日 ~ 死没 1579年10月5日 享年 21歳
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徳川家嫡男松平信康の死
わずか21歳で自害に追い込まれた松平信康の死の真相を今日は考察したいと思います。
オリジナルの志はなし。「家名存続」です。詳細は省略します。
統率 74 武勇 85 知略 65 内政 52 外政 53
何故か武勇が高いですね。
山岡荘八先生の「徳川家康」においてはかなりの乱暴者であったとのことで、
無実の僧侶を惨殺した記述もありました。
信康「義父の信長も比叡山を焼き討ちしたであろう」
家康「あれは仏の名を借りて権力をほしいままにしたからじゃ。」
というくだりもありました。
詳細は後述しますが、合戦での活躍は事実あったようですから、その辺りを評価されたのかもしれません。
事件の概要
家康嫡男の信康が武田勝頼と通じて謀反の恐れありとのことで、
信長の命令で家康が切腹に追い込んだ。
一言ではこうなりますが、諸説あります。
動画では信康を家康が扱いきれなくなって自害に追い込んだという
よくわからない内容になっており、不満!
自殺に追い込まれた理由
築山殿首謀者説
信康の母親は今川義元の姪(諸説あり)の築山御前(駿河御前)であり、
信長は叔父の仇という事で恨みを持っていた。
そのため築山御前が首謀者となって武田と内通したという説。
これは反対です。
これはない。殺す殺されるは戦国の世の常。
それが理解できない女性は「淀殿」だけかなと。
家康の愛情が冷めた説
ちょうどその年に2代将軍秀忠が産まれていることからこの説もありますが、
家康は息子にひどいことをしていません。
むしろ大事にする人なので、これもなさそう。
信長の恐怖説
私はこの説を取ります。
家康の後継者である信康の勇猛ぶりと、
信長の息子信忠のイマイチ感。
これを比較したのではないでしょうか。
それで怒りに任せて殺害を指示したというのが私がもっともあり得ると思う説です。
武田家をほぼ壊滅させた信長にとって、
「同盟関係」にある家康はもはや格下です。
そこで、信康を自害に追い込み、
それを断ったら家康を攻めようと決めていたのだと思います。
それを察知した家康はやむを得ず信康を殺したのだと思います。
事実晩年の信長は寄行が目立ちます。
1580年に信勝謀反時の責任を追及して林秀貞を追放。
同じく佐久間信盛を追放。
稀代の天才信長に陰りが見えます。
暴君化した信長による家康家臣化に向けた動きの一環で
ついでに優秀な息子である信康を亡き者にしようとしたために殺されたものだと思います。
そうでなければ優秀な光秀が謀反を起こすはずはないと思いますし。
酒井忠次讒言説(2023年10月加筆)
その後、いろいろな歴史本を読んだり、聖丁ラジオを聞いたりして、
この説が有力だな。
と、思ったので加筆したい。
私は「信長が家康に対して警戒心を持っていた」と、いう説を取っている。
実際家康が天下を取ったわけだし、
この忠義者の本質を信長が見抜いていなかったはずはないと思う。
ただ、信長は謀略をあまり使わない人物だ。
調略はするが、暗殺などは使わない。
比叡山、伊賀攻め、武田攻めの根切りなどはあるもの、
戦略上の必要があって虐殺となることはあるが、
むやみな殺生はしていない。
一説では本能寺の変も秀吉か家康が仕組んだという説もある。
光秀という名前の「光」と言う字を、
なぜだ徳川幕府の3代将軍につけている。
これは信長を討った光秀に対するリスペクトなのでは?
と思わないわけではない。
更に、南光坊天海が光秀であるという説もなかなか面白い。
個人的には家康と光秀が結託して信長を討ったという説が事実だと面白いと思うが、
おそらく現実は光秀の独断だろうと思う。
周到に計画していたら成功はなかったのだから。
さて、話はそれたが、
徳川家という性質(武士団の棟梁が家康)を考えると、
独裁者「信長」とは異なり、
家臣団の融和とか調整ということに家康はかなり神経を使っていた向きがある。
実際酒井忠次は徳川家の筆頭家老であり、
実力者である。
徳川家のDNAである、戦闘的な性質をいかんなく発現させている。
それを見た酒井が信長に讒言して、
信長が「好きにせよ」と言ったと言うのは信ぴょう性がある。
1579年と言えば信長は敵対勢力をあらかた片づけた。
とはいえ、武田家も健在で、上杉、毛利、北条もいる。
天下はまだ道半ばと言って良い状態だ。
そこで敢えて徳川家に目を付けた。
と言うのは考えにくい。
信康の才能を恐れた説は弱い気がする。
酒井忠次の讒言説が最有力と変更したいと思う。
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