1979年8月6日 岩手県住田町に産まれる。
(住田町のWebサイト http://www.town.sumita.iwate.jp)
15歳まで(田舎者)
15歳(中学卒業迄)地元の公立中学で育つ。
幼いころの夢はプロ野球選手だったが、
自分のスポーツマンとしての能力が低いことを幼いながらも理解し、諦める。
地元のムラ社会が嫌で、12歳から何とかして脱出する方法を模索していた。
どうやらこの社会は『勉強』をするということが評価の対象になり、
『勉強』をしていい大学を出ると周りから評価されるらしいという事実に気づく。
閉鎖的なこの『ムラ』を出るためには、『勉強』を理由にすると、
親もカネを出してくれるであろうと計画。
『地元の自宅から通学可能な高校では、いい大学に行けない!』
という理屈を作り、自宅から車で2時間以上かかる進学校を志望校にする。
この計画は当たった。
地元の田舎から盛岡の進学校に行くというので、
父親の自慢の息子という評価と、盛岡で下宿生活をする権利を得た。
実際今思えば、その盛岡の進学校は大したことがなかった。
東大合格者は1名もいない。東北大学に10数名、早慶は年間2,3名、
地元の岩手大学に100名程ぶち込む程度。
無事にムラを出て、盛岡と言う地方都市で一人暮らしをする権利を得た。
確かに盛岡は都会だった。
1学年に300人以上の同級生がいた。
地元の中学校は全校で100名であったので、
最初はビビっていた。
しかし、高校に入って、盛岡生活をしてみると、
どうしても岩手県と言うスケールにも満足できなくなっていた。
岩手県はどうやら全国的に見てあらゆる面で劣っている。
そもそも東大に合格するのは年間30名もいない。
県全体で。
スポーツも弱い。
産業もない。
そこで私は東京に出たいと思った。
次のステップとしては東北最大都市の仙台市がターゲットになるところだが、
あえて東京にターゲットを決めた。
『勉強』を理由にすると親は喜んでカネを出すことが分かったので、
東大・早稲田・慶応の3校を志望校として受験勉強をした。
健康のために高校時代は陸上部に入ったのだが、
高校の部活と言うのはそういう『健康目的』の部員を許さない。
そのため、無駄に頑張る羽目になり、なぜか高校3年の東北大会まで
出場させられてしまった。
これが人生指折りの失敗だったので、自分の子供には運動部をさせないようにしたい。
結局第一志望の東大には落ちた。
センター試験も700点に届かなかったので、まあしょうがない。
しかし早稲田の法学部にうまく引っかかった。
18歳(上京)
そうして晴れて東京に出てきた。
岩手の田舎者が都会に憧れて東京に出てきたわけである。
東京は控えめに言って『最高』だった。
何が最高かと言うと
『人から干渉を受けない』ことである。
岩手のムラ社会では干渉だらけだ。
親戚は毎日やってくるし、ウワサ話(どこの家の誰がどうだという奴)が多い。
盛岡クラスの都市ならそれもないだろうが、
いかんせん、ちょっと勉強ができた私は調子に乗っていて、
岩手県を小馬鹿にしていたのである。
その自分の能力を過信していたことは後で思い知らされることになるわけだが。
大学では普通に彼女が出来たり、
サークル的なものをやったり、
バイトをしてみたり、
好きなだけゲームをしたりしていた。
22歳(大学卒業)
自分の能力を過信していたので、
司法試験を受験するという身の程知らずな戦略を取ってしまう。
今思えば、
せっかく早稲田の法学部の学歴を就職活動に使わない手はなかった。
当時(2002年頃)は何でもアメリカ流がもてはやされて、
アメリカの司法制度(ロースクール)を日本に導入するという政策が進んでいた。
結果今大失敗しているわけだが。
当時の司法試験は平均合格年齢が28歳という超難関試験。
早稲田でも確かに現役合格が数名、23,4歳で合格する優秀な人もいた。
なぜか『自分はそっちの側だ』と壮大な勘違いをしてしまった。
そもそも東大に落ちている時点で自分の能力がそこまでではないことに気づくべきだった。
オマケに司法制度改革の結果、法律家が増えて、そこまで稼げる資格ではないことに
なぜ当時思いが至らなかったのか、反省しきり。
25歳(挫折し、就職)
当然大学卒業して2年やっても合格しないわけで。
25歳になった時、ロースクール制度が始動。
後輩がどんどんローンスクールに入学してくのを見て、
さすが親にこれ以上カネを出せというのも気が引ける。
と、思って、司法試験を諦めました。
同時に当時交際していた彼女とも別れ、社会人として遅めの一歩を踏み出します。
それは挫折の末の寂しい船出でした。
同級生達は大企業に就職して、キラキラしているわけです。
当時流行していたMixiなどのSNSにもうまくなじめず、
2005年にひっそりと債権回収会社(サービサー)へ就職していくことになります。
給料は350万程で、社宅が支給されていたので、今思えば結構いい待遇でした。
一応サラ金子会社とは言え、上場企業の子会社なので、
それなりに労働環境は良かったのです。
しかし、当時の私は勘違いがまだ終わっておらず、
理不尽な怒り方をする『住友銀行OBの上司』にパワハラを受けて、
ストレスがあったこともあり、
リクナビネクストを見始めます。
仕事は当然できました。
司法試験を受けていたので、裁判所を使った債権回収手続の部署でも難なくなじめました。
しかし、会社という組織では裁判所対応などの事務処理的な能力は
それほど評価されません。
会社は私の能力を高く評価してくれていたので、サービサーの花形部署である
『回収部』へ移動させてくれました。
債権回収は実は『コミュニケーション』能力なのです。
法的な回収などは『誰でもできます』
しかし対、債務者交渉はかなりの経験が必要で、
それこそ女も口説けないような奴では全然ダメなわけです。
今思えば私はここで先輩社員からコミュニケーション能力を磨いてもらったのかなと
思わざるを得ません。
26歳(1回目転職‐ブラック不動産)
さて、そんな恩を受けながらも私はリクナビクストを見て、転職を検討しました。
その結果、投資用マンションの販売をするJASDAQに上場していた企業に転職してしまいます。
その転職理由が『モデル給与年収2,000万、3年目、27歳』こんな見出しに釣られてしまったのです。
今思えば浅はかでした。
投資用マンションの販売という業界を全く理解していませんでした。
そもそもこの会社に興味を持ったのは、
子会社に債権回収会社(サービサー)を持っていて、
不良債権ビジネスと不動産を融合させた、カタカナで外資系っぽい会社だったから。
という、しょうもない理由です。
そうして面接を受けて、すんなりパスします。
こういう投資用マンションの販売会社は若くて、それなりに社交的な男であれば
雑に採用するのです。
私は前のサラ金子会社のサービサーの待遇がいかにまともで、
その会社の皆さんが私にいかに期待をしてくれていたかをこの会社で思い知ることになります。
2006年4月、私はたったの1年でブルーオーシャンのサービサーを辞め、
レッドオーシャンの投資用マンション販売の世界に転じます。
まず入社してやったこと。
地獄の特訓に参加【別のタブが開きます。】
管理者養成学校と言う有名な地獄の特訓に参加です。
13日の合宿で、集団生活をしながら、理不尽な軍隊教育です。
朝5時に起床、ラジオ体操
40キロを集団で歩いたり、駅前で一人で大声で歌を歌わされたり、
セールストークを暗記させられる素晴らしい研修です。
サラリーマンとして洗脳するために行かせる訓練と言えます。
今見るとアホくさいですね。
大東建託もこの研修に派遣しているらしく、兵隊を育成するためにはいいシステムなのでしょう。
さて、私、この研修をなぜか『首席で卒業』してしまいます。
会社始まって以来の快挙であるとして、めちゃめちゃ褒められました。
そんな研修付けの1カ月を経て、投資用マンション販売の世界へ行きます。
何をさせられるかと言うと、
「朝から晩まで電話です」
それも、古い名簿、個人情報保護法が施行された時に
名簿業者から買った名簿で
『勤務中の』サラリーマンに電話をして
『投資用マンション』のセールスですよ?
『個人的な投資の話』を勤務中のサラリーマンにするわけです。
当然ひどい対応ですし、
受付の女性からカス扱いを受けます。
街でナンパした時と同じような対応を受けまくるわけですね。
給料は月給30万円という説明でしたが、
これが嘘。リクナビネクストには書いていないのですが、
3カ月売れないと給料は22万円に下がります。
同時に入社した30人の仲間は一人、また一人と辞めていきます。
当然残業代などありません。
7時に出社して、夜9時までアポ取りの電話をしまくります。
土日も出社せざるを得ない感じです。
もう地獄です。
14時間、昼ごはんを食べる時間だけはありますが、
それ以外はずっと電話。
アポが取れなければ毎日毎日。
当然有給など取れるわけもなく。
日々すり減っていきましたね。
そんな生活は私が耐えられるはずもなく、
半年で辞めようと思いました。
そして、前職で知り合った人に、
オ〇〇〇〇証券に誘ってもらいましたので、
『証券マンもいいか。今よりましだ。』
という思考で転職を決意し、やめると言いました。
しかし、私は大きな間違いを犯します。
この不動産会社、なんと、私が次の転職先を言ったら、
転職先に圧力をかけて内定を取り消しさせたのです(笑)。
これには驚きましたね。
『おまえ、次どこいくんだ?』
と、言われ、
正直に答えた私もアホでした。
面白いのですが、こういうブラック企業って
『やめる』と言うと引き留めるわけです。
『お前のような高学歴な奴は他の部署でもいけるから我慢しろ』とか。
そういうことを言うわけです。
まあ、この会社の社長は日大中退ですので、
この会社で、私は学歴は実はたいした役に立たん。
と確信したわけでもありますが。
最終的に私の退職意思が固いと見たら、
不動産会社の役員が出てきて、
この人は銀行の役員OBなのです。
金融業界では顔が利くらしいのです。
その人が
『SAT君、キミ、オ〇〇〇〇証券に行くらしいね』
と言って、
『あそこの社長は私の知り合いなんだよ』
と言い、にっこり笑って、去っていきました。
その時は意味がわかりませんでしたが、
その後内定取り消し。
私は2006年9月に無職になったのです。
転職先を決めてから辞めたつもりが、
ナント無職になったのですね。
しかし、銀行OBの役員の使い方が何だか間違っている気がするのは
私だけでしょうか。
世の中にはどうしようもない悪意があるのだなと思った瞬間でした。
27歳(2回目転職‐再び債権回収)
その後2006年11月に自力で転職先を探しました。
私は前のサービサーがいかに私に対して優しかったかを思い出し、
また、サービサーに戻ろうと決めました。
しかし、同じ会社に戻るわけにはいかないので、
別のサービサーに就職をしました。
そして3社目となる、会社に晴れて就職しました。
投資用マンションの販売会社で、1つだけ勉強になったことがあります。
それは社長が、不動産投資の考え方を教えてくれたことです。
これは参考になりました。
私が不動産投資に興味を持つきっかけになりました。
1社目のサービサーの時は
『うわっ、借金って怖いなー、不動産ってあぶねー』
と思っていましたが、
2社目の投資用不動産販売会社のおかげで、
そうか、こういう世界があるのか。
と思い、私も欲しくなりました(笑)。
ですから、
この2社目のJASDAQ上場している不動産屋にも
私は感謝しています。
この会社に在籍しなければ、
私が不動産投資をしっかり学ぶことはなかったと思います。
1社目の不良債権回収、2社目の不動産投資と、
何かがカッチリとかみ合った気がしました。
そして3社目もサービサーにして、
今度は安月給でも真面目に働きながら、不動産を買っていこうと決めました。
そして2007年となります。
28歳(結婚ー勤め人+不動産投資への目覚め)
2007年、私は就職して給料は安かったので、
友人と起業します。
と言っても、友人の専門性がメインの商売なので、
社長は友人で、私は総務経理です。
ここからの報酬は本当に助かりました。
同時に私はどうせいつか結婚するのだからと、
妻探しを始めます。
世帯年収を高めて不動産を買おうと。
そして2007年のまる1年を今の妻と交際し、2008年1月に入籍。
その2カ月前の2007年11月に、自宅兼将来の賃貸用不動産となる、
1号物件を買いました。
その後の私の人生は不動産一覧に記載の通り不動産を買っていく毎日です。
このページはこれから加筆して、
いつか自伝を出版する日まで増やしていきます(笑)。