言葉を定義する
投資とは文字通り、「資を投げる」行為である。
資とは資産なのか?資本なのか?
これは資本であろう。
資本には2種類あって、
➀ 自己資本(自分のカネ)
⓶ 他人資本(他人のカネ=借金)
➀と②、どちらもぶん投げることが可能である。
一番アブナイ投資というのは、
借金で、『価格の変動』という不確実性に投資することである。
投資と投機の違いは、「元本の保全が図られているか?」によって違いが生じるわけだが、
世の中に数多く存在する投資と言われる行為は、「投機」である。
投機のほとんどは投げた資本が戻ってこない。
つまり損失として確定することで終わる。
その意味で言えば、新築住宅なんてもんは投機である。
投機というか、ほぼ確実に損をするから、「消費」なのだ。
経年で劣化する建物と、土地に投資しているのだが、
3,000万円の戸建で、土地1,000万円、建物2,000万円であるとしよう。
1,000万円の部分は投資と言っても、まあ、いいかもしれんが、
2,000万円の部分は消費行為である。
ただ、家が持ち家でなければ家賃がかかるわけだから、
家賃との比較で優位になることがないわけではない。
土地値の家を買って住むのはヨシとされている理由はここにある。
さらに一歩進めて考えると、
実家、親が所有していた家に住むというのはゼロだから、
絶対的な優位性がある。
資本(自己・他人)を投げて、資産を購入する行為が投資であると定義する。
株式投資では99%が勤め人を卒業できない
ここで言う株式投資とは、
証券取引所に上場しており、取引可能な状態にある株式のことを指す。
例えば「俺の法人」である、私の資産管理会社であるが、
これは100%私が株主であり、当然誰も株を買うことができない。
しかし、この俺の法人。
私が「岡田のぶゆき」さんのような人物だった場合にはどうだろう。
(知らない人は調べなさい、知らない人はモグリと言われる)
私は、どんどん不動産に投資して、総資産100億円
売上15億円の企業にするだろう。
純利益は年間5億円に達した。
俺の法人に出資した当初の1,000万円は時価総額50億円の企業になったとする。
この種の株式投資ならば、勤め人は卒業できる!
しかし、一般的に言われる株式投資では勤め人を卒業することができないのである。
私も尊敬する勤め人投資家に、株式でダブル億りビトになった人がいるが、
その人はもう40代であるが、その人をもってしても、
株式では勤め人を卒業できていない。
さらにその投資家は超一流企業勤務である。
仮に不動産にうまく投資し続けていれば、
数十億の資産規模になっていたことだろう。
逆に株式投資(上場株式)だから、2億程度なのだ。
彼ほどの才覚をもってしても、
彼が勤め人を続けているという事実。
皮肉なことに、株式投資がマズイやり方であることを証明してしまっている。
上場株式なんてものは、
配当利回りで3%程度だ。
10億20億の総資産がある人が、
5億程度キャッシュがあるから、買っておくか。
という発想でやるものなのであり、
年収1,000万ソコソコで、給料で生活している勤め人がやってどうなるものでもない。
ダメなのだ。
俺が正解なのか?
じゃあお前は正解を行けているのか?
と、言われればそうではないだろう。
私も所詮は12%程度の表面利回りで、よりリスクが高い、
既存不適格貸家に投資し続けている。
前述の株式投資家よりも純資産は少ない。
正解なわけないのだ。
彼も有能な株式投資家であり、
私も平均より少しマシな大家であるが、
いずれも勤め人を卒業できていない。
なぜなのか?
不動産『投資』をしているから勤め人なのである
株式投資は10億の純資産がある人がやるものだと言った。
さて、
孫正義さんが銀座のティファニービル400億円(利回り4%)で買ったという情報がある。
これも株式投資的な発想で買っているのだと思う。
別にNTT株を買っても良かったと思う。
つまり、株式にせよ、不動産にせよ、
「投資」レベルのことをしているから、
いつまで経っても勤め人から脱却できないのだ。
では投資をせずに何をすればいいのか?
それは既に孫正義が不動産投資をしたという話から結論が見えたと思う。
彼の人生を見てみればいい。
彼は勤め人として財を成した人物なのか?
違う。
起業家である。
つまり事業をイチから構築した人物なのだ。
正解が分かったようだ。
つまり、ビジネスオーナーなのである。
成功している不動産投資家は、実は投資家ではない。
「事業家」である。
それが本業になっていて、
自分のメインビジネスとして不動産に取り組んでいるのだ。
知らぬ間に表面12%でいいと満足していた私
私の戦い方は利回り12%の都内、千葉西部の貸家を買うことであった。
しかし、12%で私に売った業者はいくらで仕入れているのだろうか?
仮に彼らの投資金額で運用していたら、30%、40%の利回りで
ぶん回すことが出来ていたのではないか?
であれば、なぜ、私はそれができないのか?
自分でやろう!
そうなった時、私は投資家ではなく、事業家になれるのだと思う。
地方ではその程度の利回りは普通だ。
であれば地方に移住してその利回りを狙えばいいじゃないか?
それをしないのは、
私自身が「勤め人」という立場に固執しているからであり、
勤め人という立場があって初めて成立する
「投資家」という立場に甘んじているに過ぎないのである。
投資家だというヤツに本当の投資家はいないのかもしれない。
投資家という言葉の裏をよく見た方がいい。
彼らの生活を支えているのは何か?
大家業1本であれば、それはもはや大家業という事業家であろう。
投資家ではない。
バフェットも投資家として有名だが、既に本業が投資なので、
事業家である。
株と不動産はどちらも投資として見られがちだから、
逆に凡人は勘違いしてしまう。
私の不動産投資だって、最終的な利益で見れば、
株式投資の配当率3%程度に収斂すると思う。
その意味では「不動産投資」でも勤め人は卒業できないのである。
「事業」「生業」のレベルまで高めないと、結局勤め人収入に依存してしまうのだ。
つまり投資家脳とは勤め人脳だ。
キャッシュフロークワドラントで言うと、
E(勤め人)からI(投資家)には原則進めない。
B(オーナー社長)にならないとどうしようもない。
結局私自身が、12%で良い。
と、不動産会社の出口になっているのである。
そんなこともあって、私は自分をあまり
不動産投資家であるとは言いたくない。
客観的に見ればそうなのだが、
自分は「大家」だと言っている。
投資家とは資を投げるだけの資本を持っている者だ。
無産階級出身の勤め人(俺)のことではない。
をはり