何のために私はブログを書くのか?
8月は私の誕生月であり、30代最後のこの1年を有意義に終えたいと思い、
こんな題名を付けた次第です。
あえて不動産やサラリーマン生活に関係がない話題で恐縮です。
私のしょうもない昔話にしばらくお付き合い頂ける方はお付き合い下さい。
さて、私は岩手県の過疎地の出身で、兼業農家の次男坊でした。
豊かな生活ではありませんでしたが、何不自由なく楽しく育ったと思います。
多少勉強ができたのと、変化がない田舎の生活が嫌で、
実家を離れて、一人になりたいと、
高校から岩手県の県庁所在地である、盛岡市へ進出しようと決めました。
(私の実家から盛岡は通学できない距離=電車で2時間半、駅までも1時間)
盛岡市に進出する大義名分は『勉強』ですから、
実家から通える範囲にあるような進学校ではダメです。
よって県内で2番目に難しいと言われている高校に進学しました。
特に何をしたかったわけでもなく、とにかく実家を出たかったのです。
それから高校に進み、田舎者としてコンプレックスを持ちながらも
都会である盛岡にも慣れてきました。
しかし、盛岡に慣れてくると、もっと都市に行きたい、
岩手県自体どうしようもない県で田舎じゃないかと、
思い悩むようになりました。
やっぱり東京に出たい。
しかし東京に出るにも大義名分がいる。
東北大(仙台)より上のランクの大学じゃないと理由にならない。
そして比較的勉強もできたので、東京にある、
東京大学を目指そうと思いました。
別に深い理由はありません。
日本一の大学だから目指すのはよかろうと思ったのが1つ。
もう1つの理由は、東大を目指して勉強をしておけば、
仮に東大に合格しなくても、それなりの大学には合格するだろう。
そんな適当な理由で東大を目指しました。
高校時代は、チームスポーツは自分のミスで人に迷惑をかけない種目が良いと、
体操部に乗り込もうとしましたが、
女子限定だったので、入れず。
やむなく陸上部に入りました。結局3年の夏まで嫌々練習していました。
そして当初の目論見通り、東大には落ちましたが、
滑り止めに早稲田、慶応、東北大(後期)と受験していたうちで、
早稲田に合格できました。
晴れて岩手の限界集落の田舎者が東京進出を、
それも早稲田大学の学生という肩書をひっさげて、果たしたわけです。
しかし東京に来て理解したことがありました。
それはカネです。
いくら学歴があってもどうやらこの世界はカネがないと話にならんようだと。
私の仕送りは14万円。
学費は別途親が払っていたので、十分な金額ではありましたが、
私の大学の友人の中には『金持ち』という人種がいたのです。
東京に進出した私は、日本の中心に来て一応の目標を達成したので、
次の目標をカネに定めました。
しかし、大学生活の中では女もできてバイトもして、
適当に楽しんでしまいました。
カネのためにさほどの努力もしませんでした。
そして大学卒業が近くなり、司法試験でも受けようかな。
と、と思って就職活動でせっかく証券会社の内定をもらいながらも
それを断って、勉強を始めました。
弁護士になればカネが入るだろうと安直な理屈です。
当時の弁護士の平均年収は1,500万程でしたのでいいと思っていました。
しかし、私の学力は、東大に落ちた時点で気づくべきでしたが、
司法試験のような難関試験にホイホイ合格するほど、優秀ではありませんでした。
そもそも当時の司法試験は平均合格年齢が28歳オーバー。
卒業後6年も勉強してやっと合格するような難関試験です。
択一試験は合格するものの、論文試験で完璧に敗退します。
就職しておけばよかった!と思ったのですが手遅れです。
そうこうしているうちに24歳を過ぎ、ロースクール制度が始まります。
(ロースクールのシステムとは、司法試験を法科大学院を卒業した人に限定する制度です)
実家はけして裕福ではないので、あと2年大学院へ!
と親に頼むこともできずに、債権回収会社へ就職します。
結構「失意」というか「挫折」です。
就職した結果、私の年収は300万ソコソコ。
うーん。少ない。弁護士の1/5じゃないか!
今思えば25歳の若造としては普通なのですが、
安いと思って、2回ほど転職を繰り返します。
似たような業界なので、それほど年収は変わるはずもなく・・・。
転職による年収UPを諦めて27歳の3回目の就職先に落ち着いて、
仕事を頑張ることにしました。
(もっと早くサウザーラジオを聞きたかった)
まあ、もともと頭もいいですし、法律も知ってますので、
借金を法的手続でガシガシ回収するわけで、
二束三文で買ってきた不良債権を100倍200倍回収するわけです。
私は今と同じように会社へとてつもない利益を上げて貢献します。
まあ、それも全部会社が持っていくわけですけど。
そんな生活の中で勤め人として不良債権の担保物件だった、
ワンルームマンションを処分しようとしていたところ、
買手はなんだか普通の不動産屋ではなく、投資家という人種でした。
30代なかばのおじさんで、外資系金融マンっぽい感じでした。
当時の私はワンルームマンションを借金して買うと、
30歳にもならない若造に「追い込み」をかけられるという、
不動産とは『世にも恐ろしいもの』だという理解でした。
それもそのはずで、2005年ごろは、まだまだ不良債権がたくさんあって、
バブル期的な不動産投資やゴルフ会員権の担保付債権が安値で
取引されていた時期だからです。
しかし、外資系金融機関勤務の投資家は
「500万円前後でワンルームを買って、毎月家賃を7万円ももらえるならいい投資だ」
と、言うではありませんか。
なるほど、「売る側から見ればひどい投資だったが、
それを安く買う側から見れば割のいい投資がある」わけだ!
と、私は雷に打たれたような感動を覚えました。
そうして、大学時代に世の中カネだと認識しつつも、
弁護士になれなくてカネをあきらめた私は、
不動産投資という世界を知り、逆転を狙って動き始めたのでした。
と、あとは結婚 → 1号物件の投資と進むわけです。
思えば27歳28歳のころは低い年収であって必死にもがいていましたが、
自分が30代後半になったら年収も8桁になりましたし、
今思えば、そんなに焦らなくても普通に生きていけたよね?
って感じです。
まあそんなつまらない人生です。
さて、ここまで書いてやっと『なぜ私がブログを書くか。』
に触れていくわけですが、これは『遺言』みたいなものです。
私の息子たちが、私が死んだ時に、これを読んで残された
会社や不動産をどうするか、考えて欲しいと思って書いております。
「そんなものは私的にノートにでも書いておけばいい」
と、言う方もいるでしょうが、
私がブログにして残しておきたいと思ったので
ほっといて下さい(笑)。
ま、どうせなら私のしょうもない人生や不動産投資についての
雑記が、私の子供達以外でも、誰かの役にでもたてばいいかなと思っています。
そんな理由で私は日々ブログを書いております。
アフィリエイトで収益化!とかは全く考えておりませんで、
サラリーも8桁あるし、不動産事業も順調に拡大しているし、
アフィリエイトのような面倒で、ブログが汚くなるものは置かないのです。
(そんなことを言いながらいつか、導入したらごめんなさい)
とにかくサウザーさんが
『1年ブログを毎日書いた』という話にビビっと来て
私も1年やってみるか!
と、思ってますので、1年間は毎日更新して、
Twitterもつぶやきます。
その先は、またその時考えるとします。
ただいま3カ月経過中。
これからもよろしくお願いします。