1周回って加藤ひろゆき先生のVoicyに入門
聖丁Radioを周回しすぎて、
再度加藤先生のVoicyに帰ってきた。
加藤先生のVoicyは1回1時間という分量なので、
つい再生することを敬遠してしまっていた。
いざ聞いてみると、やはり面白い。
様々なゲストを召喚するスタイルであるが、
加藤先生の「話力」に改めて感心する。
「ああ、この方は芸人(エンターテイナー)なのだな」
と、改めて思い知らされる。
私も一時「インフルエンサー」を志したのだが、
ポールさんにしても加藤先生にしても、
エンターテイナーとしての才能がある。
私とは違う。
私はどちらかというと「ふんどし王子」に共感を感じる。
合理性と合理性を継続する胆力がある。
それでありながら、周囲に合わせすぎる過剰謙虚。
同種の魂である。
話がそれた。
たまたま加藤先生のVoicyを回していたら、
加藤先生が血糖値の異常高値で入院スル、というではないか?
何を隠そう私の兄も昨年同じパターンで入院した。
私の2つ上の兄貴である。
兄貴も体重100㎏に迫る巨体であった。
私もなぜか90㎏台に入っている。
その兄が入院して60㎏になってしまった。
ケンカしても勝てそうだ。
兄貴もまだ小さな子供を抱えている。
4人未成年だ。
死ぬわけにはいかない。
必死に医者のいうことを聞いて、
生活を改善している。
ふと私も自分の身体を振り返ってみたら、
普通に生活をしていると兄貴と同じ道を歩いていたと気づいた。
軍神加藤先生も同じ病を抱えていて、
久しぶりに加藤先生のVoicyを聞いてみたら、
入院と謂ふ。
健康について考えなおさねばならんと、
改めて思いなおした。
今年はいろいろなことがあった。
本当に。
後半は特に悪夢を振り払うかのように、
勤め人に没頭してきたが、
気が付いたら、無理をしていたようだ。
来年はこのテーマに取り組まざるを得ない。
頭がいい人、悪い人、太る人痩せる人、はげる人フサフサな人
人間の多様性というものは凄まじい。
頭脳、体力、体型、容姿。
1人して同じ人はいない。
太っているからと言って不健康な人ばかりでもない。
痩せているのに、結構大食いで、
持病をかかえている人がいる。
スリムなのに健康診断に毎回ひっかかる人もいる。
私は小太りおじさんだが、
健康診断は概ね良好だ。
ハラ回りの85㎝オーバーだけはひっかかるが、
とはいえ何か問題があるわけではない。
不思議なものである。
「誰にも共通する普遍的な法則」はないと思う。
色々な作戦があるが、
自分の健康状態を維持するために必要なことは、
「試す」「効果を検証する」「いい方法を選択する」「いい方法を継続する」
つまりPDCAを回してみるしかない。
糖質制限がハマる人もいるだろうし、
禁煙が効く人もいる。
禁酒で全部解決しちゃうパターンもあれば、
しっかり食べることで健康になる人もいる。
正解が人の数だけある。
その正解に早くたどり着かないと健康寿命が尽きて再起不能になる。
加藤先生ほどの天才でも病には勝てないし、
死からも逃れられない。
いわんや凡人たる私をや。
である。
先送りしてしまっていた、健康というテーマ。
最重要課題にして、ラストチャンスだと思って、
まさに昨日(2023年11月23日)から取り組みを再開した。
3食最近は食べていたのだが、
昨日は夕食を抜いた。
おかげで、少し今日は体調が良い。
今朝も食事は抜いた。
今日は飲酒を避けて、
土日も食事を少なくして運動を多めに取り入れたい。
本能的行動をやめ、全ての行動を意識の管理下に置く?
私は過去に何度もダイエットに取り組んできた。
ピークは94㎏、最軽量時は65㎏であり、
これを2往復ほど繰り返している。
俳優の役作りみたいな真似をしている。
確かに体重を減らすことに集中しているときは減らせる。
意識をずっと体重に向けているから可能なのだ。
しかし、勤め人生活や私生活が多忙になると、
体重の管理や健康状態の把握を
「本能にゆだねてしまう」
これが失敗の本質だ。
自分の中には2つの人間が住んでいると思う。
1人はストイックで、努力家の自分だ。
もう1人は怠惰で、自堕落、強欲な自分である。
この2つの人格をうまく飼いならすことが、
「生きる」ことである。
ストイックな自分を前面に出して生きられればいいのだが、
この自分だけで生きようとすると、
強欲な自分が反旗を掲げ始める。
ストレスを感じ、殺されまいと抵抗してくるのだ。
強欲な自分を殺すことはできない。
適度にエサやりをして、満足させないと、
決死の抵抗を始めてストイックな自分を完全に押し切ってしまうのだ。
要するにバランスが重要なのだ。
強欲な自分と、たえず取引をする
ストイックな自分が本当の自分なのか?
強欲な自分が本当の自分なのか?
ストイックな自分こそ本当の自分だと思いたいが、
実はそうじゃない。
強欲な自分もやはり本当の自分なのだ。
まずはそれを認めることから始まる。
例えば、今、
私の目の前に20代前半の美しい女性がいて、
私と結婚したいという、それもハニートラップではない。
家族を捨てて、20代の美女と新しい生活を始めるという
欲求。
強欲な自分はこれを受け入れようとする。
しかし、ストイックな自分は、拒否する。
3人の息子と今や資産家となった、美しい40代の妻。
合理的に考えたら、20代の美女は拒否するべきだ。
欲が強い人はつい20代に走るだろうが、
私はなんとか拒否できる。
しかし、
強欲な自分は大いに不満だ。
そこで私は強欲な自分にある程度のエサを与えねばならなくなる。
最高級風俗に10回行って良いというエサだ。
キャバクラかもしれない。
幸いなことにそんなラッキーは起こっていないので、
風俗は不要だが。
ダイエットでも10㎏減らしたら、
好きなラーメンを食べるとか、くだらない取引をしなければならない。
常に強欲な自分と、ストイックな自分。
双方のせめぎあいをバランスさせていくのが、人生なのだと思う。
今年の後半戦。
私はストイックな自分を勤め人の仕事に投入しすぎた気がする。
何かを忘れようとするかの如くである。
それはこの場では言えないのだが、
ようやくそれも落ち着いてきた。
私が何をするかというと、
「強欲な自分を勤め人に投入する。」
禁じ手であるが、
これをやる。
ストイックな自分を勤め人から引きはがす。
勤め先には申し訳ない。
ストイックな自分の活動領域を私生活に戻させていただく。
結果的にそうすることで私は健康を取り戻すであろうし、
60歳まで働くこともできる。
申し訳ないが、これは「依頼」でも「相談」でもない。
私が一方的に行うという「宣言」であり、「通告」だ。
回答を求めるものではない。
勤め先が出来るのは「受け入れること」そして
「解雇すること」この2つだけだ。
スキにして欲しい。
私もスキにする。
折り合えたらうれしい。
つづく