不登校癖のある息子への回答
息子は不登校癖がある。
学校には行くべきだと言うのは簡単だが、
その理由を説明するのが難しい。
中学生にもなれば、納得のいく理由を求めるものである。
親たるもの、
自分なりの回答を用意した上で、「学校へ行け」と、言わざるを得まい。
さて、
私の場合には、まずこう言う。
「学校はサラリーマンを養成する機関であり、
全員がここでサラリーマンとして使える労働力になるように教育されるのである」
と。
当然、次に息子が尋ねることはこうだ。
「じゃあ、経営者になるのであれば、学校に行かなくていいのか?」
私の回答はYESだ。
「経営者に限らず、サラリーマンという方法以外で稼ぐ力があるのであれば、
その必要はない。」
例えば、投資家として優秀であれば学校へ行くことは不要である。
芸能の才能があれば学校教育は必須ではない。
とはいえ、息子はまだ13歳。稼ぐ才覚などない。
それでも息子は
「じゃあ俺は経営者になるから、学校へは行かない」
と回答するだろうが、
私はそれに
「しからば貴様が経営者なれるというビジネスプランを提示し、実行してくれ」
と要求する。
これが出来ない限り、息子は「勤め人」養成機関たる学校から出ない方が、息子にとって良い。と言う。
勤め人か、それ以外か。
どちらにもなれぬ者は人間としては落伍者として社会から助けてもらう人生しか残されていない。
学校教育とはカタにハメるものであり、勤め人養成機関であり、選抜システムである。
教育で個性を伸ばすなんて嘘っぱちである。
そもそも個性は伸ばすものじゃない。
個性とは、叩いても叩いても起き上がってくるものである。
どんなに抑圧されても反発して大きく膨れ上がるのだ。
例えるならば、ダウンタウンのような天才的漫才師を例に挙げる。
学校教育でダウンタウンのような笑いの個性を伸ばせるだろうか?
不可能である。
教室で大爆笑を取る生徒を注意するのが教室だ。
あくまでも国家や会社の使用人を育成するのが学校である。
その言語力、数学的能力、語学力によって分類し、
適材適所に人間を振り分けていくシステムが学校教育なのだ。
勉強が出来ず、体力がある人は「肉体を使用する労働者」に分類される。
勉強はソコソコ、体力はあまりない人間は「単純作業労働者」としての道に促される。
先生(将来の上司)のいうことを的確に実行でき、事務処理能力が高い人間は官僚になるよう促される。
その善悪は脇へ置いて
多数の国民を抱える国家が提供するシステムとしては、
この方式を採用せざるを得ない。
善悪ではない、この点を間違えてはいけない。
この教育と言うシステムから逸脱できる人間は、
芸能人やプロスポーツ選手である。
その個性があれば勤め人になる必要はない。
息子らには今のところ、経営者としての資質、スポーツの資質、芸術の資質は全く感じられない。(実はあるのかもしれないが、私には分からない)
いわゆる「平均的な人間」は勤め人養成システムから逸脱することはできぬのである。
実際、上記の資質がない人間は、勤め人として生きた方が辛くない。
これもまた事実であろうと思う。
他人に使われるということは役に立つということ
他人に使われる。
即ち使用人となることは不幸ではない。
そもそも、使われない人間は「使い物にならぬ」
と評価され、労働力として認められない。
善悪は別にして、
それが資本主義という制度なのだから仕方ない。
地球で生物として生まれたら、与えられた環境で生きなければならない。
宇宙で生活したいと言っても地球環境で生存するよう設計された身体には無理な話である。
人間に生まれたのに、「ライオンになりたい!」
と言っても無理である。
ライオンになろうとして野生動物に食らいついたら、
多分怪我をするし、万が一食えたとしても腹を壊すだろう。
人間は社会を構成して生きる生物なのだから、
それ自体を否定することはできない。
同様に、資本主義社会に生まれたのに、資本主義を否定するならば、
資本主義を超える経済システムを構築して、それに全人類を従わせなければならない。
そもそも経営者や芸能人、プロスポーツ選手も他人の役に立たねば価値がない。
経営者は多数の消費者に役立つ商品を産み出さなければ利益を出せないし、
芸能人も多数のファンがいないと生活できない。
ファンを楽しませられない芸能人はタダの自己満足だ。
プロスポーツ選手も同じ。
結局人間とは他の人間の役に立つために生きるしかないのである。
ここまで話をして、
息子には自分の人生を自分で選べ。
と言うしかない。
学校へ行かず、経営者を志しても、経営者としての能力がなければ、生きられない。
それに気づいたときに勤め人になろうとしても、
学校へもロクに行かない、低学歴、体力もない人間は、勤め人としても使い物にならないと評価されてしまう。
未来の自分を明確に描けない限りは選択肢を減らさないためにも学校へは行っておいた方が良い。
この程度しか言えない。
それでもなお、学校に行かないのであれば、それは息子の選んだ人生である。
10年後に親にケツを持ってこようとしても無駄である。
私は大学へも行かない18歳の成人に達した息子を家にはいさせない。
執行猶予5年で、息子は社会という資本主義の監獄で懲役刑に処せられる運命だ。
資本主義を監獄とするか、楽園として生きられるかは、自分次第だ。
つづく