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大家業への感動が薄れている

2008年の2号物件での家賃受取

私の大家業デビューは正式には2008年である。
それも私のデビューと言いながら、
最初物件は妻名義であった。

妻は実家暮らしの32歳独身女だったのだが、
自分の車を持っていた。
俺の嫁に来たからには自動車なんぞいらねぇんだよ。
(と、言うより駐車場代なんて払えん)
と、いうわけで車をビッグモーターで売ってもらった。

そしてコツコツ貯めていた貯金から230万を出してもらって、
2号物件の頭金にした。
さらに、500万円をりそな銀行から借金させて、
2号物件を買った。

家賃の手取りが77,000円。
管理費修繕積立金で10,000円払い、
ローンを32,000円支払って、
大体3万円程度の手残りだ。

なぜ2号物件を買わせることができたかと言うと、
給料は同じくらいで、若干妻の方が高かった。
私が全額住宅ローン2,900万円で1号物件(当時は夫婦の愛の巣)を買ったのだから、
アンタはアンタで借金して貸家を買え。
という、よくわからない理論で買わせたのである。

家賃は全部妻のものだから、
別に私が批判されることもないとは思うのだが、
ちょっと雑な解像度で見たら、チョットヤバイ旦那である。

意味が分からない。

そんなこんなで、人生初の家賃を受け取ったのが18年前である。
当時は感動した!
実はそうでもない。
数字で組み立てて、オーナーチェンジで買ったので、
事務作業をしたら通帳にカネが印字されるようになったな。
という無機質な感覚だったような気がする。

これがDIYリフォームでもしていたら違ったのかもしれないが、
案外感動は薄かった。
しかし、それでも、ほほー、こんなに想定通りにいくんだな。
という感動は、確かにあった。
私は3号物件取得に向けて、信金で積み金を開始して、2011年の3号物件購入に向けて、
貯蓄とダブルワークに励むのであった。

繰り返すこと20数回…。

あれから18年。
私は相も変わらず同じことをしている。
正しいことというのは退屈なものだ。

判で押したように同じようなオペレーションだ。
マンションが戸建になっただけで、全く同じようなことをしている。

家賃は8万円から200万円、妻が相続した義実家の不動産を合わせると、
家賃は月300万円を超えている。
しかし、印字される数字が8万円から300万円に増加しただけで、
私達夫婦は何も変わっていない。
歳を食っただけである。
歳も食ったが次世代もたくましく成長している。

当たり前の人間の営みってヤツかもしれない。
感動はなくなったが、確実に豊かになっている。

一周回って、感動は必要ない。
そう、安心して眠るために大家業を始めたのであり、
初夜のカップルのようなドキドキや感動は要らないのである。
水道の蛇口をひねって水を出して、コップから飲むように
「できて当たり前」
まさに赤子の手をひねるが如き造作もないことであるべきなのだ。

感動は薄れて良いし、ミスの1つもなく、
ビジネスが回っていることを当然のように受け入れるのだ。

ブログの内容も大家業よりも勤め人の愚痴が多い。
そう、つまり、大家業の情報発信として始めたのに、
勤め人の愚痴の方が勝ってしまう程に、
大家業が安定していてつまらなくなっているというこの事実!
動かしようがない事実である。

読者諸兄にあっては、
既に大家業を始めている人も多いと思う。
まさに、共感を得られると思うのだが、
株式投資よりもアップダウンがない。
株式投資はまさにギャンブル。
リーマンショックが明日発生したら、株価は1/3に下落するだろう。
そんなギリギリの興奮。
大家業にはないのだ。
だが、それでいい。

その日常を手に入れたくて、大家業を始めたのだから。ね。

人は贅沢なものである。

二度と立ち上がることなく、死を待つ病人が望むことは、
立ち上がり、歩くことだろう。
1日、自分の力で生活して自由に行動したい。
そんなことだ。

しかし、それが当たり前の我々は、
もっと広い家に住みたい。
あれが欲しい、旅行したい、アレを食べたい。
と言う。
もっとカネが欲しいと。

私も御多分にもれず、世帯年収が5,000万に届いたというのに、
勤め人を辞めたい。
勤め人を辞めても今の年収を維持したい。
いや、もっと必要だ。
と、砂漠で水を求める旅人の如く次を、さらなる高みを求めている。

日本政府も税金をもっとしぼり取ろうとしている。
いや、別にカネなんて、ただの政府に対する請求権なんだから、
国庫債券発行したら一緒ですやん。
という批判も無視して、さらに絞り取ろうとする。
いやいやいやいや、債務証券なんて、
紙切れですよ。
金と交換できたのは100年以上前のことですわー。

おっと、話がそれた。
欲望には際限がないということだ。

もっとデカイ不動産を、もっとたくさんの貸家を。
そんな塩水を飲むような渇望の螺旋からは一抜けするべきなのだ。

もう、これ以上は、必要ありません。

そう思えたら勝ちである。
そう思うために必要なのは、決意だけで、実は貸家の1つも必要ない。

日本最高の侍が行きついた先は無刀であったが、
日本最高の勤め人大家の行きついた先は、まさかの無職、無資産である。
必要ないと分かるために、労働して、貸家を買ったのである。

今日は仙人モードである。
明日は修羅モードになることもある。

そうやって揺らぎながら生きる。

つづく

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