2022年3月15日
2年も続いたコロナ禍も最終局面という状況。
人生のうちの2年間をセミリタイア後の生活を彷彿とさせるに十分な疑似体験を得たような気がする。
リモートワークの流れでストレスが極限まで軽減された勤め人生活をすることになり、
その一方で暇を持て余してしまったことも否めない。
仮に不動産でセミリタイアしても、
自己を律して充実した毎日を送ることができるのか?
恐らく自堕落な生活をして徐々に老化していくだけではないかと言う疑念も生じた。
やはり、まだ40代の働き盛り。
世の為人のためになることを行わねば、人として生まれた意味もないなと思い直した。
勤め人をするだけでも、
立派な仕事をしているので、世の為、人のためになるのは間違いないが、
どうせやるのであれば起業家として自分の思いを実現したいという思いもある。
カネを稼げるということは人の役に立っているということだ
詐欺や窃盗のような犯罪によって得た収益でない限り、
人の役に立つということは究極的にはカネになるということである。
人間は自分にとって有益だと思うことにカネを払う。
他人の有益に貢献してこそカネになるのである。
即ち、世の為人のためとはカネのためということにもなる。
これは表裏一体であり、分離することはできないほど結合していると思う。
その意味で私はこの結合された関係を大いに歓迎する。
大義のためとは即ちカネのためである。
資本主義がここまで発展したのはこの原則と無関係ではない。
勤め人も雇い主を通じて人の役には立っている。
勤め人だって捨てたものではない。
影響力は低いながら、
雇い主を通じて人の役に立っている。
無論その対価は給与に過ぎないのであるが、
多数の人間の全員が経営者や起業に向いているわけではない。
勤め人も必要なのであり、
劣等感を感じる必要はない。
十分社会に貢献している。
さて私は何をするのか。
衣食足りて礼節を知る。
私は収入足りて子孫繁栄に取り組み、ご立派な仕事もある。
不動産もあるので、将来の食うに困る懸念はない。
この上何かしたいこともないので、
この安定したシステムを回していくのみである。
「やりたいこと探し」
など、する必要もない。
食うに困る人間のするやりたいこと探しほどみじめなものはない。
やりたいことは探すものではなく、
やりたくてやりたくてどうしようもないから、
やらざるを得ないものである。
ハズカシイ中年になってはいけない。