足利 義昭(あしかが よしあき)
生誕 1537年12月15日 ~ 死没 1597年10月9日 享年 61歳
室町幕府最後の将軍です。
幕府再興
将軍こそ武家の棟梁なり
今一度、将軍の統べる世を取り戻す
役職叙任
功ある者に幕府の役を与える
役ある者は幕府のために励むべし
包囲網
幕府の敵となる者、
許すまじ
包囲網を敷き、
これを討ち果たさん
役職叙任
影響力を弱めていた室町幕府ですが、
依然としてその権威は侮れないものが
ありました。
将軍は役職の任官や大名との謁見を通じて、
武家の棟梁としての力を
誇示しようとしていました。
基(叙任):交渉条件として役職を提示できる
条(幕府の権威):親善の効果が上がる
条(職の名誉):役職を与えた大名の心証が毎月上がる
悪(権威失墜):拠点を失うと家臣の忠誠と民忠が大きく下がる
包囲網
足利将軍の号令は、守護大名たちにとっては
特別な意味を持ちます。
御内書と言われる文書によって下された号令により、
多くの大名たちが信長包囲網を形成し、
信長を窮地に陥れました。
基(征伐):他勢力と連合軍になると戦闘力が上がり、勝利すると戦意が大きく上がる
条(御内書):他勢力が要請に応じやすくなる
条(武家の棟梁):宣戦をすると他勢力が加勢しやすくなる
悪(烏合の衆):他勢力との連合軍で決戦に敗北すると戦意が大きく下がる。
統率:34
武勇:33
知略:66
内政:76
外政:99
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外政99!
信玄、本願寺、浅井、朝倉と言った大名らを巻き込んだ
外交力に高い評価が与えられましたね!
最後の最後どうなったっけ????
信長に追放されて、
毛利家辺りに潜伏していた記憶がありましたが、
最後の最後はどこでどうなったんだっけ?
という疑問が湧き、調べました。
1575年 信長包囲網を再構築するために「甲越相三和」を仲介しています!
甲斐、越後、相模つまり武田、上杉、北条の和睦を仲介しています。
上杉謙信はこれに対して、武田とは和睦するが、北条とはできない。
と、回答したようですねぇ。
これは深い。
上杉謙信は「関東管領」ですからね!
信長しか目に入っていない義昭に対して、
上杉謙信の中ではまだ足利幕府の秩序が完全に凝り固まっている。
そんな気がしますね。
それから1576年、備後の国の鞆(とも)へ移っていき、ここで長いこと過ごしたようです。
1582年の本能寺の変もこの場所で知ったようで、
その喜びはいかほどのモノだったかと。
すっげー喜んだんでしょうね(笑)。
でもその後むなしかったとも思いますが。
さて、
1587年には島津義久に対して秀吉との和睦を進めるなど、
積極的に外交に勤しみます。
その後1588年島津は秀吉に降伏。
なんと!
その後
1588年1月13日に天皇に謁見して、将軍職を辞任
いや全然知らんかった・・・。
やばい。てっきり室町幕府の終了は信長による京都追放かと思っていましたが、
厳密にはここじゃねえかと。
その後何と文禄、慶長の役では肥前名護屋まで出陣しています!
ええええええええ。驚き過ぎる。
信長にはあれほど敵対的だったのに、秀吉には従順だった模様。
もういろんな感想が湧いてきますが、
人世って面白いなあという感想だけですね。
また気になることが出てきたら調べて加筆します。
光秀と放浪したあたりのことも気になります。