俺は老後に備えない
老後に備えるという場合の老後とは何か?
まず定義を明らかにしなければならない。
その老後というヤツが、
仮に勤め人を定年退職した65歳から始まるとしよう。
まあ、65歳まで勤め人をやるとは到底思えないのだが、
仮に私は65歳まで勤め人をやっても、
65歳になった翌日から、SAT法人の専業社長になるだろう。
恐らく売上5,000万円程度の中小企業の一人社長になるだろうが、
営業利益はどんなに低く見積もっても3,000万円。
給与はそれほど必要ないが、月50万で600万円もあれば十分だろう。
そのまま死ぬまで働く。
それが俺のプランである。
客付けをしたり、賃貸募集をしてくる業者さん回り、
物件の清掃など、今まで外注していた軽作業をすることになる。
無論会計、税務もある。
専門家とコミュニケーションもしなければならん。
さて
この状況は老後なのだろうか?
恐らく世間一般が言う、老後と言うヤツは、
勤め人をやめて、労働収入がなくなった状態。
これをスタート地点に置いている。
さらに、
労働収入以外には年金と、預貯金の取り崩し以外にない状態である。
これを前提としている。
なんでやねん!
と、言わざるを得ない。
株式でダブル億りビトとなった人で配当年600万円あるとしようか。
配当生活は確かに老後ではあるが、
この人は貯金が数千万円ないとしても、全く問題はない。
老後に何千万円必要っていうのは、そもそも一律に定義できない。
ただ、世間一般の定義である、老後。
労働しない、経営法人もない、株の配当もない、個人事業も何もない。
そのような状況は、私には訪れない。
老後などないのだ。
生きるとは働くことだ
老後とは労働できなくなることではないか?
労働ができない状態、自分の身の回りの世話はできるが、
他には何もできないレベル。
これを老後と定義するのなら、対策としては
「そのような状態に陥らないように日々健康に留意する」
としかいいようがない。
ただ、働くとは、人生だと思っている。
働くの語源は、傍(はた)つまり側である、自分の周囲を楽(らく)にすることだ。
傍を楽にすることを働くという。
つまり、人の役に立つと言うことである。
人の役に立つことをするから、対価としてカネを頂くである。
人間とは人同士が社会を作り、協力し合うからニンゲンなのであり、
それができなくなった場合は、原則として死ぬべきだ。
家族がいて、それも忍びねぇ。と、思うから
生かしてもらえるだけの話。
社会に余力がなければ死ぬしかない。
自力で食えなくなってまで、医療の力で生かそうとしているが、
これは医者が点数ほしさにやっているだけで、本来不必要である。
人は死ぬべき時に死ぬために喰うのをやめる。
それを無理やり現世に引きとどめようとするのはまさに地獄の苦しみである。
話がそれたが、
生涯働く。これが原則だと思っている。
(無論、だから貯金しなくていいという話ではない。)
ただ、浪費する以上にちゃんと働いて、自分のビジネスに投資していたら、
65歳までに、3~5億、純資産で1億程度のビジネスにはなっているのではなかろうか。
私でさえ総資産2.3億、純資産1億の商売にはなっている。
勤め人時代にただの給料運搬人に堕することなく、
人様の役に立つことを、労働力販売だけにとどまらずに活動し続け、
死ぬまで働くことだ。
国家全体として、定年→年金ではなく、生涯働く。
これを目標にすべきだと思う。
平均80代まで生きる時代に、65歳から十数年も無為徒食するための資金を現役世代から徴収するというシステムが機能するとは思えない。
老後があるとしたら
老後とは何か?
と、言われたら、
私の定義はこうだ。
働けなくなって、死を待つまでの期間。
それを老後というのである。
それは短ければ短いほどいい。
実際国民年金制度が導入されたのは1961年(昭和36年)だ。
厚生年金は1944年(昭和19年)と、こっちの方が早い。
まあ昭和36年に国民皆保険システムができた。
この時の平均寿命は男性66歳、女性70歳。
60歳から支給するとして6~10年しか生きられない。
健康で、軽い労働程度であっても働いた方が労働者としてもいいし、
現役世代の負担も軽くなる。
今の制度は歪んでいる。
が、圧倒的多数を占める高齢者=有権者なので、
多数決を旨とする民主主義制度から当然こうなる。
ある意味仕方がないのだ。
国家としてはどうしようもないのでさて置き。
少なくとも自分の話としては、
生涯現役で働きたい。
働けないということは死んだということである。
をはり

