まとめてかかってこい!この俺様が相手になってやる!
猪武者、武力特化型、低知能型のステータスというヤツがある。
猪武者には色々いるが、
三国志で言うと夏侯惇、張飛、顔良、文醜、呂布などがいる。
武力特化型の場合も大きく2種類に分かれ、
義理が低いタイプと高いタイプがある。
武力偏重で義理が低いと、呂布型になってしまい、
これは早晩死ぬことになる。
単純に信用できない野蛮人である。
現代では生存できないステータスである。
とはいえ、原始時代からさほど変わらない脳を持っている人間の女性には、
このタイプを好む層が一定数生存している。
その遺伝子が繋がって、現代でも武力偏重型の人間が案外残っている。
スポーツという形である程度需要があるので、
出会った相手に片っ端からケンカを売るような極端な性質でもない限りは
何とか遺伝子が繋がっている。
最近、社員がイジメで、同僚を線路の中に無理やり入らせて自殺させるという、
狂った人間の所業が摘発された。
私のような農民の中に産まれて多少ズルい頭を持った程度の人間には、
全く理解できないような野蛮性だ。
特に武力型の人材は、とにもかくにも、知力+政治型の人間と組むことが重要だ。
そして裏切らない。
戦国武将で言うと、前田利家、本多忠勝、井伊直政、山県昌景、三国志で言うと関羽、趙雲という方向に転換して、
最低限の知力ステータスと義理ステータスを伸ばしていかないと厳しい。
特に老化すると、後天的に身に着けたモノがどんどん失われていく。
売りの「武力」も衰えるし、持前の粗暴さが人を遠ざける。
まさに人生の後半で苦労するスキル振りなのである。
経営者であれば、オラオラ営業でどんどん事業を拡大して、
最期は社員の離反、裏切りを招くタイプである。
上杉謙信も「義」と「毘沙門天(宗教性)」を失ったら危険な戦争野郎に過ぎず、
こんな危険なヤツは周囲から一斉に攻撃されて死んだだろう。
源義経のようなものである。
徳川家康は武力偏重から忍耐によって政治、知力型に変化した。
徳川家と言うのは代々激情型の家系であったと言う。
実際、家康の祖父清康の武力はすさまじかったというし、
息子の中には信康、(結城)秀康、孫の忠長など、腕力型の人間が多い。
家康自身も本来はそのような形質の人だと思われるが、
今川義元と織田に挟まれて人質生活を過ごし、太原雪斎の教育によって
粗暴な性格を抑えるように自身努力してきたのであろうと思う。
今川家からの独立後も、三河の一向一揆、織徳同盟、今川家への侵攻、
武田信玄、武田勝頼との攻防、秀吉との戦い(武力、外交)を切り抜けている。
恐らく爪を血が出るまで噛んでいたのは、自身の本質である、暴力性を抑えるためだったのだろうと思う。
特に武田信玄との10年以上にわたる対峙は家康を大きく成長させたと思う。
信玄は武力偏重とは対極的にある人で、孫子の兵法書を読み、ある意味オタクの域に達していたのだろう。まず旗印が孫子。城を作らない。治水工事に至っては現代まで有効で、
今信玄が現代によみがえったら間違いなく大学教授になっているだろう。
そもそも戦争はそれほど好きではない。
およそ戦勝5分を以て上となし、7分を以て中となし、10を以て下とする。
そんなことを言っている程である。
そもそも武田信玄の領土拡大は極めて遅い。
父信虎を追放して(家臣がしたと私は思っている)家督を継いだのが1541年(信玄20歳)であり、信濃を手中に収めるまでに12年かかっている。
信長が2か国目の美濃を手中に収めるのに9年を要しているので、
2か国目を取ると言うのは結構な難事なのだと思う。
それはそうだ、戦力が拮抗する1カ国 VS 1カ国なので、2か国を領する勢力が1カ国を領する勢力を倒すのとでは要する時間が違う。
まあ2か国目は信長も信玄も差がないとする。
しかしその後の侵攻は遅々として進まない。
これは上杉謙信と消耗戦ともいえる川中島の戦いをやってしまったことによるが、
信玄が本当に天下を目指していたとすれば、
三国同盟を締結したら即、美濃に侵攻すべきだったはずだ。
恐らく信玄にはそれほど天下への野望はなかったのだと私は思っている。
孫子の兵法が大好きな大学教授のような人だったのではないかと個人的には推測している。
そして外交がヘタクソである。
武田信玄の外交は全くもって一貫性がない。
三国同盟はそもそも、京都を目指す今川義元の後顧の憂いを断つためである。
そもそもだな、武田信玄が天下を最初から目指していたら、
そんな同盟は結ばない。
1555年時点では確かに上杉謙信の実力を見誤っていた可能性は否定できないし、
上杉謙信と戦う方が今川と戦争するよりマシだと思っていた可能性もある。
1561年の第四次川中島の合戦には100%コイツはヤバイと、
上杉謙信の強さを理解して、そこから今川攻略に変化させた可能性は確かにある。
それはそうとしても、天下を目指す信玄が上野に侵攻したり、飛騨に侵攻したりと、
全く統一感がない動きをしているのは天下を目指す意図がなかったとしか思えない。
どう考えても美濃攻略から近江、京都へ進むのが最短ではないか?
信玄の拠点が甲斐だったとしても、信濃を抑えたのは1555年なのだから、
信長が尾張一国をしっかり押さえたのは1565年の織田信清(@犬山城)の攻略まで時間を要したのであり、信濃、東美濃、美濃と進行するチャンスはあった。
尾張も信濃も京都まではそう変わらない。
更に外交もヘタクソだ。
信玄はそれほど人間関係の調整が得意ではないのだと思う。
今川侵攻前には今川の嫁をもらった息子を斬っている。
北条と手切れしてしまい、謙信と北条が手を結ぶという苦境を指をくわえて見ているし、
キレのある外交が見当たらない。
全てが受け身なのである。
信長包囲網も本願寺や足利将軍が発案だし、三国同盟もそう、織田信長と仲良くしてみたり、
家康と一緒に今川領土に攻め入ろうぜ!と言ってから、
手のひらを返して織田徳川と戦ったりと、全く持って主体性が感じられない。
逆に反北条で関東勢をまとめて攻め入った上杉謙信の方が統率力を感じる程だ。
そういう、対人恐怖症なところがある、そんな秀才が信玄であろう。
その大学教授のような信玄と対峙したことで、
武力型の家康が、知勇兼備の将となったのは言うまでもない。
オラオラ系の初期ステータスの人は是非、
政治と、知恵ステータスを最低限高める、家康にはなれないだろうから、
せめて、知恵と政治ステータスが高い参謀を付ける器量を持つか、
その人の片腕になる道を探るべきだろう。
SATのパラメータ
政治58 武力52 知力68 魅力55
凡庸な武将である
伊達実元的なステータスであろうと思う。
特にこれと言った決め手はない。
多少お勉強ができるので、知力は68と評価した。
社交性が低く、運動性能も低くはないものの高いとも言えず、
魅力も凡庸だ。
知力はそこそこあるものの、
こざかしい程度の知力であり、本当に知性がある人からは
簡単に底の浅さを見抜かれてしまう。
策士策に溺れるの類であり、謙虚にふるまわないと、
あっという間に総スカンを食らって人生が終わると思う。
とはいえ、政治力も低い。
組織を作ってチームをまとめる能力も低い。
だからと言って、孤高の士として竹中半兵衛のように
山中に庵を結び、という人生も嫌だ。
適度に人間関係があり、深い付き合いはしないという程度がいい。
それを評して曰く、
「村はずれの似非賢者」である。
この村はずれの賢者は人とあまり交わりたくないがゆえに、
村の外れに住んでいる。
かといって、一切交わらないかと言えばそうではない。
たまに山で採れた山菜やら木材を街で売る。
売ったカネで酒を皆と飲むが、毎日は来ない。
忘れた頃にやってきて交流する。
が、また暫く見なくなる。
ある日村は地震で崩壊する。
村人はやむなくこの地を離れる。
村はずれの自称賢者はついてこないのだろうか。
ところが村が移住して1年後、
村はずれの賢者はまた村の外れに家を建てて住み始めたのである。
その賢者のような人間が私なのである。
しかし賢者は自称賢者の似非賢者である。
実は寂しがり屋の人嫌いなのであった。
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