仁義の人、極悪非道の人
仁義の人の評価は後世まで語り継がれる。
極悪非道もまた後世まで語り継がれる。
仁義の人も非業の死を遂げることもあれば、
極悪非道の人もまた非業の死を遂げる。
枚挙にいとまがない。
しからば
我々は極悪非道であるべきか?
はたまた、
仁義の人として生きるべきか?
どちらであろうか
答えは歴史を顧みればよい。
生まれついての仁義の人と言われる人がいる。
劉備、諸葛孔明、竹中半兵衛、上杉謙信、直江兼続、立花道雪、高橋紹運
いずれも押しも押されぬ仁の人である。
一方極悪非道の人もいる。
織田信長などは第六天魔王と自称する。
三悪(将軍、大仏、主君を弑した)の松永弾正久秀。
宇喜多直家、斎藤道三など。
極悪非道を地でいく皆々は非業の死を遂げている。
同じ死ならば、悪でも構わん。
という生き方もあろうし、
同じ死ならば、仁義の名を残そう。
という生き方もある。
それは人それぞれでよかろう。
一方でどちらにも当たらない人物。
なおかつ、穏やかな死を遂げた人こそ注目せねばなるまい。
徳川家康、忠義の人?
徳川家康公などはその代表格であろう。
桶狭間の戦い(1560年)では主君である今川義元が死んだが、
織徳同盟は1562年である。
主君が死んでから2年は織田家とも争っていたようだ。
「今川義元公の弔い合戦をせん!」
と、義元の息子である、氏真に対して決起を促していたという説もある。
義元死す、の報で岡崎城から逃げ出した今川家の代官に代わって、
岡崎城に帰還し、さっさと織田家と同盟したのではない。
確かに駿府城には人質がいたのだから、
すぐに織田と同盟はできなかったのかもしれない。
それでも、人質は見切って織田とさっさと同盟して今川を攻めなかったのは
さすがである。
仁義が見えるではないか?
その後、1562年から1582年までの20年の長きにわたり、
徳川家康は織田家に忠実だった。
武田信玄からも何度も誘い水があったことだろう。
何度もあの武田信玄の侵攻を退けているし、
織田の浅井、朝倉戦にも大兵力を率いて出陣している。
忠なるかな。
まさに仁と忠である。
本能寺後、本領に戻ってから織田家がまとまらないスキをついて、
甲斐、信濃を手中に収めるところは老獪である。
織田家の後継者への忠はなかったのだ。
あくまでも織田信長という人間に対する「忠」だ。
羽柴秀吉に対しても最初から恭順した様子はない。
今川義元が死んだからと言って、さっさと織田と結ばなかったように、
羽柴秀吉とも一戦交えて、その後秀吉の妹を正妻として迎えるまで、
講和はしなかった。
しかし、その後はまさに「忠」だ。
秀吉に恭順の姿勢である。
慣れ親しんだ、三河遠江、駿河、甲斐、信濃から、
当時は沼地だった関東に飛ばされても、従った。
豊臣政権では五大老筆頭となるほど、忠を見せたではないか。
しかし、秀吉の死後はあっという間に政権を奪って見せた。
そう、徳川家康の忠とは、
「自分より強い相手には忠、仁、義である」
という意味に他ならない。
その意味では秀吉も同じだ。
織田信長の死後、徐々に織田家が形骸化していったのだ。
忠義の人から狸へ
自分よりも強い相手がいなくなってからは、
忠義の人ではなく、狸となってしまった。
家康は変わってしまったのか?
そうではない。
もともと忠義の人ではない。
最初から、強い相手とは決戦しないという姿勢を学んだに違いない。
それは武田信玄、織田信長から学んだことだろう。
信玄は謙信とどちらかが滅亡するまで!という戦い方はしなかったし、
信長も信玄との戦は信玄が死ぬまで決戦を避けている。
家康は同じことをしたのである。
秀吉も織田家を徐々に衰退させたが、
家康も豊臣家を徐々に衰退させた。
豊臣家の滅ぼし方は秀吉に学んだ。
征夷大将軍就任後は、さっさと後継者を秀忠として、
この地位が世襲であることを天下に知らしめ、
さらに転封、改易、工事への動員を通じて
諸大名を適度に弱体化させて、儒教を導入して
世襲支配を盤石とさせたうえで、
満を持して豊臣家を滅亡に追い込んだ。
これである。
これこそ学ばねばならない。
極悪非道は内に秘め、外には仁義を見せる
極悪非道な思考と、
仁者としてのふるまい。
この2面性が重要である
極悪非道な思考というのは
冷徹な「現実主義的分析」ということだろう。
例えば両親が痴呆になってしまったとする。
自分の兄弟は全員貧しく、誰も引き取り手がない。
儒教的な観念が支配的である我が国において
親を姥捨て山に捨てるがごとき行為は身内、世間からの評価が大いに下がる。
冷徹に考えてみれば、
老いて死ぬだけの老人の面倒を見るよりも、
自分や自分の子供を助ける方が良い。
父親の遺伝子もそれを望むだろう。
しかし、である。
我々は獣ではない。
恥もあれば、外聞というヤツもある。
このような場合、
率先して「自分が親の面倒を見る」と申し出るのも一計だ。
冷徹に考えた結果として、
申し出る。
しかし、
面倒を見るといいつつ、裏では
生活保護受給者にしてしまい、
自分が負担をすることなく、
公的な介護施設に父親を入れる。
毎日様子見としてアルバイトを雇って見に行かせる。
こういうことである。
兄弟に対しては自分が父親の面倒を見た、
社会に対しても父の最後の面倒を見た。
という形式が整う。
(役場の生活保護担当者が情報漏洩する危険はあるが)
一方で実際は父親は生活保護受給をさせ、
バイト君に様子見をさせているので、負担は一切ない。
内面の「冷徹な思考」と、上っ面の「仁愛に満ちた行動」である。
徳川家康という人はそういう人だったのではなかろうか?
冷徹な思考と激情が同居するような複雑な人だっただろう。
強大な敵と内部には家臣団の争い。
両方をうまく制するために、想像を絶する苦労をしたことだろう。
爪を血が出るまで噛んだというのはその苦労の発露だったのだ。
似たような場面は現代でも枚挙に暇がない。
愛人を切る時、取引先に最後通牒を突き付ける時、
事故の加害者に対して厳しい請求をする時。
そんな時、冷徹な現状分析の上で自分が最もメリットを得られる策を立てる。
その策を四方八方から吟味する。
その策、仁なるか?
その策、利あるか?
その策、誰かを傷つけないか?
その策、最上なるか?
と。
この2面性の両方を備えた判断を下すことが、
生存のための戦略である。
つづく