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大谷 吉継

タイトル画像は

大谷吉継像太平記英勇傳 大谷刑部少輔吉隆(資料:森宮古美術)

 

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生年 1559年(現在は1565年説が有力! ~ 没年 1600年10月21日 関ヶ原の戦い

家紋

 

対い蝶(むかいちょう) と 鷹の羽(たかのは)

信長の野望(大志)

志は「断金の契り」…士は己を知る者のために死す。呪われしこの身、それ以外望むことなし。
これは石田三成への友情を超えた信頼をあらわしておりますな。

「莫逆の友」…友よ、六道地獄へ行くならばこの吉継が喜んで相伴せん。
「采百万の軍略」…我が軍略の極みを見せるには百万の軍勢があろうと足りぬ。

病にかかっていた吉継は、ある茶会で膿を茶碗の中に落としてしまいます。
この時、諸将が口をつけるのを嫌がる中、石田三成は茶を飲み干して見せました。
この心遣いに感動した吉継は、。関ケ原の戦いで三成につくことを決めたといいます。

「紛争調停」…親善の効果が上がる
「先懸衆」…決戦で部隊の士気が上がる
「堅陣不屈」…敵より少ない兵数で決戦すると部隊の攻撃力が上がる
「病の影」…部隊の視界が狭くなる

有名な話ですな。

吉継の采配は、豊臣秀吉をして「百万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたほどでした。秀吉はこう続けたといいます。他の将と違い、吉継は大義のために己を捨てられる。そこが怖いところだと。吉継は関ケ原で敵大軍を押し返し、その言葉を実証します。

「一族挙げ」… 足軽の募兵速度が上がる。
「兵站整備」… 行軍時の兵糧消費が減る。
「不退転」… 大名部隊壊走時に一度だけ士気が全回復し戦況が悪化しない。
「輿の歩み」…決戦で部隊の移動速度が下がる。

統率 90 武勇 70 知略 89 内政 78 外政 81

さすが。秀吉の旗下で大活躍の実績、
徐々に加筆していきます。

大谷吉継の病は何だったのか?

三成との茶会の逸話でもありましたが、大谷吉継の病気は何だったのでしょうか?
どうやら癩病(らいびょう)、またの名をハンセン病であったとされています。
(または重度の梅毒と言う説もあります)
感染症であり、らい菌により発症する難病だそうですが、発見は19世紀。
当然不治の病で当時は前世からの業により発症するという理解がされたようです。

小早川秀秋への呪い

関ケ原で裏切った小早川秀秋の陣に向かい
「三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)」と言い、自害し、
小早川秀秋が関ケ原の2年後に発狂して死亡したという逸話は有名です。

しかし、彼ほどの男は既に小早川の裏切りは予見していたと思います。
後付けでしょう。

私、大谷吉継大好きですから!

結構な頻度で更新していくと思います。
何といっても戦国ナンバーワン人気の真田信繁の義父ですしね!
1回目はこの辺で!

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