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勤め人卒業後を意識する時

昨日40歳を迎えたSATです。
おはようございます。

いよいよ40歳という年齢に達しました。

織田信長40歳の時、1574年。
1573年に武田信玄が没し、信長の天下布武を妨げる障害はなくなりつつありました。
この年伊勢長島の一向一揆を鎮圧することに成功しています。
まさに勇躍の時。
30代まで、武田信玄やら室町幕府やら、旧世代との闘いに明け暮れ、見事に勝利。
40歳からは円熟期を向かえます。

豊臣秀吉40歳の時。
37歳で長浜城を得て、40歳からは近畿地方西部の攻略に明け暮れていきます。
その後、本能寺まではひたすら西へ西へと進軍していく、織田家の先鋒としての役割を果たしていきます。

徳川家康40歳は1582年。
まさに本能寺その年、変革の年となりましたね。
この後も秀吉の風下に立たざるを得ない時期が続きます。
まさに忍従です。

さて、こうしてみると、
40歳という年齢は、まさに円熟期という歳になるんだなと、
想いを致します。

戦国の3英傑の40歳を見ると、
やはり!何と言っても!
30代までの積み重ねが実を結び始める時期であると言えましょう。
逆に30代で何もしていない時点で、10年遅れると言っても過言ではありません。
20代、30代で為すべきことを為して40歳を迎え、その実を得ると。そんな時期でしょう。

私の40代はどうしようかと、まさに思案しているところですが、一つの指針を得ました。

私が好きなのは何と言っても徳川家康です。
彼の40歳は正に転換の年。
主君信長が死に、秀吉の天下統一を見続けることになる今後10数年。ここから関ケ原の合戦まで18年もあります。
この18年の間、家康は何をしていたのか?

まず、小牧・長久手の合戦で実力を示し、豊臣政権でも最重要ポストを得る。
次は何と言っても関東入府です。
慣れ親しんだ、三河・東海地方、半生をかけて争って勝利した旧武田領を没収され、関東の地へ飛ばされます。
ここで秀吉に怒って戦を仕掛けることもできたかもしれませんが、家康は黙って従い、関東の開発を開始します。
この時の開発がまさに現代の「東京」の発展の礎(いしずえ)となったことは説明するまでもありません。

そう!私もまさに40歳からの18年を「忍従」にささげようと思います。

織田信長のような「サウザーさん」
扇動者「イケハヤ尊師」はまさに足利義昭。
天才的な戦法を編み出すが天下に興味はない、上杉謙信のような軍神「加藤ひろゆきさん」

私のような地味な人間は40歳にしてまだまだ忍従です。
何を忍従し続けるかと言うと、
「勤め人」です。
今のレベルの事業規模で独立してヒーヒー働くというのは愚策!下策!

まだまだ我慢して勤め人を続けます。
まさに今、イケハヤ尊師やサウザーさんに影響されて挙兵するというのは、毛利元就に厳島におびき出された陶晴賢のようなもの!飛んで火にいるハッピーサマーウイ「蚊」です。

時は今、雨が下知る、五月かな

の一句の後、織田信長が討たれた1582年6月。
家康は命からがら堺から三河に逃げたところ、
敵討のために挙兵した時には既に天下は秀吉の手に落ちていました。
ここから家康は地道に信濃を平定し、真田家を除いて、旧武田領を制圧して地盤を固めます。

まさに私もここでしっかりと勤め人+アルファの地盤を固めて、天下人秀吉に「家康ここにあり」を示す、小牧・長久手の戦いの下準備をする時期であります。

焦らず、しっかりと勤め人として稼ぎ、自分の法人の財政基盤を固めていきます。
手堅い!手堅いぞSAT!

つづく

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