「差別」と一言では語れないのである。
おそらくアインシュタインよりも、
現在の東大工学部の大学院生の方が最先端の量子力学を理解している。
また、ダーウィンよりも以下略。
科学技術系の学問においては、
常に時間の経過とともに直線的に発展するが、
残念ながら経済学や政治学、心理学などは直線的な発展が起こらない。
結局未だに、ケインズが最高の経済学者であろうが、
なぜか現代の経済学はアダム・スミスとか新自由主義経済を最高として、
研究されたり、実際の経済を動かしたりしているのである。
依然として、マックスウェーバー、マキャベリなどの著書は不滅の名著であり、
カール・マルクスによる資本主義の分析程に秀逸な資本主義分析は起こっていない。
そう、科学技術分野に関しては日進月歩だが、
文系学問においては人類は1歩進んで2歩下がるを繰り返しているのである。
人類全体の心の進歩はとてもゆっくりなのである。
そんな現代人にはびこる「平等」、これも病理である。
そもそも、生物的には「劣等な個体は滅びるべき」なのである。
心身に障害を持ったオスライオンはおそらく狩りができず、
成長して群れから追い出されて、死ぬ。
障害の原因が先天的か後天的かによらず、淘汰される。
しかし、淘汰されないとしたら、
劣等な遺伝子が次世代に繋がってしまうことになる。
そんなことを続けていたら、ライオンはハイエナにサバンナを追われ、
滅亡することになるだとう。
しかし、人間に関してはそうではない。
私もライオンのルールを人間に適用するべし。とは思わない。
弱きも助けるのが人間だと思う。
心身に障害があろうとも、健康だろうとも、平等に生きる社会が望ましい。
しかしながら、
能力において、平等に扱うべきではないと思うのだ。
例えば、学習能力。
東大、京大、早慶などの有力な大学には重点的に予算を投資すべきだと思うが、
いわゆる、Fランクの大学には予算を投入すべきではない。
オリンピックでメダルを取れるアスリートには集中的にカネをかけるべきだが、
メダル圏外の選手にはカネを突っ込む必要はない。
優秀な学生には返還不要の奨学金を出すべきだが、偏差値50以下の人は高卒で就職させた方がいい。
障碍者と健常者は同じレベルの生活ができるように配慮する必要はあるだろうが、
障碍者福祉だからと言って、一流企業でバリバリやっていく勤め人と同じ給与水準を与える必要はないのである。
その意味で生活保護などはあってよい。
しかし働いている人以上に裕福な暮らしをさせる必要はないのだ。
競争あるべし、しかし敗者も生かすのが人間だ。
要は競争はあるべきなのだ。
むしろ競争は積極的に肯定する。
経済競争を積極的に推進して、稼ぎたい人には稼いでもらう。
敗北しても生活できるレベルの収入は与えるのだ。
そうでなければ、将来来るべき宇宙人との戦争に負ける。
悪平等でモテない男性も子孫を作る権利なぞ保障したら、
人類は劣化していく。
モテも競争だ。
いい男、いい女に磨きをかけてより優れた個体を誕生させるのは大いに良い。
本来であれば優秀な人材は子供を作る義務を課したいところだが、
この点は我慢する。
そもそも優秀な人から優秀な子供ができる可能性はある程度高いと思われるが、
絶対ではないし、無能からも優秀な人材は誕生することもある。
この点は個人の自由でいいと思う。
危険なのは、自分の無能や無努力を棚に上げて、人並み以上の生活や待遇を求める人間を正当に「それなりの立場」で満足させることである。
面白くない芸人は苦しい生活をさせるべきなのだ。
であればこそ、「あきらめる」こともできる。
あきらめて、他の道に転向し、その道で別な才能が開花するかもしれないのだ。
面白くない芸人に人並み以上の生活をさせても、
転向もしないし、面白くもないので、人類にとって無益となってしまう。
繰り返すが、チャンスは平等に与えられるべきだが、
結果は不平等でよいのである。
能力の差も競争も大いに結構コケコッコーである。
無能が上に立つ国は亡びる。
をはり