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クリスマスでお年玉で誕生日な人生

貧しかった幼少期

私の小学校時代は暗黒の時代である。
3人兄弟の次男で、誕生日はケーキを食ったが、それ以外に何もない。
正月はお年玉をもらえるが、まあ2万も集まらん。
何かとカネをくれる親戚もいるにはいたが、まあそんなもんだ。
クリスマスという文化はない。
岩手にキリストはいないのである。

それでも自分が貧しいと思ったことはない。
コメと漬物と魚とみそ汁は食べ放題だったから、
食うに困ることはない。

娯楽はTVゲームしかないが、
十分だった。
友達とサバイバルゲームをしたり、
魚を採ったりしていた。
冬は極寒だったので冬眠していた。
高校からは一人暮らしを始めたので、
都市の生活に埋没していった。

うちの現代っ子ども

うちのバカ息子3兄弟はそれに引き換えである。
長男はIphone15を買えという。
次男はSwitchを買えという。
三男は欲しいものがないらしく、次男の真似をしてSwitchを買えという。
なぜか妻まで調子に乗ってIphone15が欲しいという。
私の職業は借金取りであり、サンタクロースではない。
資本主義ではサンタクロースという職業が成立しないのだ。

イタダキ女子ならぬイタダキ息子だ。
クリスマスにプレゼントを貰おうとする。
それも3つである。
父親、母親、祖母。

それぞれにオーダーしている。

そもそもケーキ食って終わり。

それが私の幼少期である。
中学生になるとこの奇妙な風習も消えた。
そもそもなぜクリスマスにケーキを食うのか?
毎朝仏壇に手を合わせているのにキリストの生誕を祝う意味も分からん。
仏陀の誕生日にやればいいのではないか?
中学生くらいからそんな疑問も生まれたので、
別に欲しいともほしくないとも思わなくなった。

クリスマスプレゼントという奇妙なイベントが復活するのは、
女と付き合うようになってからである。

大学生の時は、相互に交換していた気がする。
結婚してからもしばらくは何かしら貰っていた気がする。
いつの間にか誰からも何ももらえなくなった。

だがそれでいい。

買って手に入るものは全て手に入れてしまった。
欲しいものは即買える。

買えないものは家族である。
そう考えたら、イタダキ息子どもからは既に私はプレゼントを頂いていた。

しかしだな、

それに感謝をすることとイタダキ息子どもの言う通りに
プレゼントをあげることは別の問題だ。

男はカネと女を自分の力で獲得、守らなければならない宿命だ。
イタダキ癖をつけてはならない。

多少小ガネを持っているからと言って、
彼らを無能な状態で資本主義の海に放り出すわけにはいかんのだ。

つづく

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