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高坂 昌信

 

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(高坂 昌信 1527年~1578年6月12日頃諸説あり)享年52歳

甲斐・石和の百姓である春日大隈の子ですから豊臣秀吉のような
立身出世の人ですね。

なぜ高坂昌信は『逃げ弾正』と言われたのか?

信長の野望『大志』で、長篠の戦いのシナリオでやっていたら
『逃げ弾正』という方策が解放されました。
その効果は「決戦で潰走した部隊の復帰が早くなる」
混戦になると頼もしい方策です。

そもそもなぜ彼は逃げ弾正と呼ばれたのでしょうか。

調べてみました。
そもそも弾正とは天皇が与える官位(律令制度)であり、従三位下です。
戦国三弾正(せんごくさんだんじょう)という言葉もあり、

保科 正俊(ほしな まさとし 1511年~1593年)※すごい長生き!
は槍弾正(やりだんじょう)

真田 幸隆(さなだ ゆきたか 1513年~1574年)は攻め弾正と呼ばれていました。

調べてみると撤退戦が上手かったと言う説が有力です。
他に信玄の寵愛を受けており、他の家臣から腰抜けと言われていたという説もありますが、
彼は武田信玄の最大のライバルである上杉謙信との国境最前線の海津城(かいづじょう)を
守り、侵略を許さなかった名将には違いありませんから、どうやら前者が有力です。

こちらを読んで知識を深めたらまた加筆します。

 

海津(かいづ)城主 高坂昌信

1561年5月 高坂昌信の養父であった、香坂宗重が上杉政虎(上杉謙信)との謀反の疑いで誅殺され、高坂昌信がその名跡を承継します。この時35歳。
上杉謙信の抑えを担当する以上はやはり35歳程度の年齢は必要でしょう。

それから甲越同盟(武田勝頼ー上杉景勝)を仲介していた記録があるようですから、
死(1578年6月)迄海津城にあったと思われます。その間17年海津城主であり続けたようです。

その後松代城と名前を変えた海津城ですが、
1622年に徳川秀忠から上田からの移封を命じられた真田信之が城主となり、その後明治維新まで
信州真田藩の居城でした。

やはり武田家でプレイしたら海津城主はこの人以外にはいません。

 

高坂昌信がしているマスクは何だ?

面頬(めんぼお)と言うモノらしいです。
そういえばこの武将もしてる!

 

コチラは志村光安(しむら あきやす)です。
(生誕 不明 ~ 没年 1609年または1611年)
この武将も大志からカッコよくなりました。最上義光(もがみ よしあき)の家臣ですね。
光と書いて(あき)と読むのが最上の伝統でしょうか。
確かにこの面頬があれば、矢を首に受けても死にませんし、
顔に当たっても逸れます。

多分最上家をピックアップするのは3年後位でしょうから今ここで説明しておきます。
統 武 知 内 外
80  84  80   59  69

一回り評価がUPしたようです。
ざっとネットを探しましたが、ここまで評価される要素が見つかりません。
面頬武将というわけで終わり。

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