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爪に火をともすように生活して貸家を買う教育

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若かりし頃の貧乏の記憶

中学生までの私は貧乏だった。
そもそも義務教育時代は豊かになりようがないので、
皆そうだっただろう。

例外的に親がバカであれば、
浪費の快楽を教えてしまうことになる。

私は岩手の農村出身であるが、
確かに、小学校の時にハワイへ行ったという同級生がいた記憶がある。
正直うらやましいと思った。
私は夏休みに隣町にも行かずに、
川へ行ってイワナ、ヤマメを突き刺して晩飯のオカズにしたり、
友人と戦争ゲームをやっていた。

今思うと、
ハワイの同級生の親は金持ちではなかった。
結局その同級生も看護師になって、普通の家庭に収まっている。

ただ、ゲーム、自転車など、どうしても欲しいと思っていたモノは
買い与えてもらっていたので、
不幸ではない少年期ではあった。

高校に進んでからは、毎日勉強、部活で日々が過ぎて行った。
思考する暇がない。
土日も部活である。

今思うと、人生とか、資本主義とか、社会の仕組みとか、
そんなことを考える余裕さえなかった。
部活が終わって20時前に帰宅。
晩飯を食べて風呂に入り、洗濯をする(高校から下宿生活だった)。
宿題を終えて、23時に、
「ニュース23」を見た。

恐ろしいことに私は筑紫哲也さんが好きだったのだ。
尊敬していたと言ってもいい。
早稲田の政治経済学部を出て、
なにやら社会に対して正しそうなことを言っている。
(よくワカランが)

そんな程度で人を尊敬するようなアホであったのだ。
結局目に見えるモノだけが自分の世界に過ぎなかった。

話がそれた。

高校時代は贅沢という発想すらない。
日々に忙殺されたのみである。
今思うと、単に勤め人コースを爆走していただけだった。
陸上部で毎日クタクタになるまで走ったが、
何が残ったかというと疑問だ。
何も残ってない。

毎月必要な金額だけが、銀行口座に入金されていたので、
その範囲で生活していただけだ。
唯一の楽しみは古本屋でマンガを買うことだった。
それはそれで十分だった。

大学時代になると格差社会が見えてきた

大学に進むと、さすがに自分の実家が裕福ではないことが明らかになってきた。

同級生の中には、
家賃を払うのがバカバカしいから。
という理由で、
親がマンションを購入、
そこに住んでいるヤツもいた。

卒業したら賃貸に出せばいい。
という発想らしい。
ワンルームでも当時は2,000万円はしたであろう。
それを娘が大学に行くからと、
ポンと買ってしまうのだ。

そうではなくても、
家賃が10万円を超えるマンションに住んでいる後輩もいた。
親は医者だった。
私の家賃は当初4万。
フロなしアパートであった。
しかし、親に泣きついて、
私は7万円のマンションに引っ越した。

女と同棲まがいのことをしたりと、
好き勝手やらせてもらえた。

それでも金持ちの家の息子との違いには
驚かされることは多かった気がする。
ただ、金持ちの息子らと言えども、
過剰な散財はしないし、
自分が裕福であることを可能な限り見せないようにしていたのだろう。

私が付き合っていた連中は謙虚で、
人間性も優れていたので、分からないようにはなっていたが、
今思うと、彼らは「バイト」を一切していなかったが、
普通に生活をしていた。
すんなり弁護士になったり、
卒業旅行で海外に行っていた。

違いは確かにあったのだ。

息子らにはもっとカネの面で不自由をさせねばならぬ

今思うと、私は実家が豊かではないながらも、
人並みの生活が出来ていた。

それでもカネの不足は感じていたから、
努力することができた。
しかし、私は思う。

「渇(かわ)きが足りてねえ。俺の人生には。」

もっと切実に、
カネが欲しい、という渇き、渇望、飢えが欲しい。

世帯年収が5,000万円を超えた程度で、
私は満足してしまっている。
勤め人もダラダラ続ければいいと思っている。

普通の家庭で普通に育ってしまったことで、
司法試験もさっさと諦めた気もしないでもない。

もっと切実に貧しくて、
合格しないと死ぬ。
というところまで自分が追い込めなかったのだ。

貧乏が不足して起業する気もないのかもしれない。

と、まあその辺りは、
産まれた個体の遺伝情報の発現具合にもよるので、
必要以上に貧乏をさせる必要もないこともわかっている。

子供がカワイイので、ついつい贅沢をさせてしまうので、
なるべく貧しさ、欠乏感、ハングリーさをはぐくむためにも、
少し贅沢には気を付けようというレベルである。

をはり

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