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子育て世代こそ「課題の分離」だ。

アドラー心理学を知るきっかけ

Audible(オーディブル、Amazonが提供している音声配信サービス)
で、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」

を購入した。
恥ずかしながらベストセラーとなってからも
しばらく手に取っていなかった。

一時、心理カウンセラー関連の書籍を読み漁っていたので、
どうせその話だろう。
と、多寡をくくっていたのだ。

「まあ、有名になったらしいから、オーディブルで聴いてみるか」
程度の軽い気持ちで聴いてみた。
それが私がアドラー心理学を知るきっかけだった。

ポイントになる概念

アドラー心理学では、
世間の一般的な通念を論理的に破壊していくような
革命的なプロセスで語られることになる。

その中でも
① 他者貢献
② 課題の分離
③ 愛とは
④ 教育とは
➄ 幸福とは
⑥ 原因論(トラウマ)の否定

このような事項が本を振り返るまでもなく、
パッと思いつく。
幸福とは嫌われること。

教育とは自立を促すこと。
などなど、
パワーのあるワードが満載である。

特に「課題の分離」という発想は、
人生を非常に生きやすくするキー概念である。

莫大な教育費を負担しているのに結果を出せない息子に怒る。

私が最も問題意識を持っていたのは、
私が毎年100万円以上も支出して
SAPIXにかよわせ、スイミング、ピアノをやらせている長男に対してであった。

実は私の実家は貧しく、
そもそも都会には「中学受験」という発想があること自体知らなかった。
もし私が、今の息子のような環境を与えられていたら、
もっといい人生を送れていたはずだ。

にも拘らず、このバカ息子は
最高の環境を与えられ、
容姿端麗(控えめに言ってもウチの子供はイケメンだ)に産まれてきて、
結果を出さずに自堕落な生活をしているのは許せない。

という過去が原因となって
私は息子に辛く当たっていたのである。
これが私の課題だった。

課題の分離という考え方。

アドラー心理学では
「自分の課題」

「相手の課題」
を明確に切り分ける。

そこで引用されるのは以下の「ニーバーの祈り」
であり、聖書にも同様の記載があるらしい。

God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.

【日本語訳】
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

自己の課題とは「変えられるもの」
他者の課題とは「変えられないもの」
そして、
子供の課題とは明確に「他者の課題」である。
と私は理解するに至り、
それまでの怒りが約3割に減少した。
(それでも息子と向き合っていると、怒ってしまう場面もまだある)

私が過去、受けられなかった教育環境を
息子に与えていることは、私達夫婦の自己満足に過ぎない。
息子からしてみればそれは所与の条件である。

そして、教育を受けて、それを人生にどう活用するかは
「息子の課題」である。
受けた教育の結果を引き受けるのは私ではない。
息子が教育を受けた結果、東大に入ろうが、法政大学に入ろうが、
その結果は私にはほとんど影響がない。
多少自慢して自己満足に浸れるかもしれないが、
東大に行っているのは私ではない。

と、ある意味、ワリキリのような、諦めのような感じを抱くかもしれないが、
私は息子を愛しているし、尊敬している、求められれば支援する姿勢も示す。
しかし、教育をどう活用するかは、最終的には息子の問題。
成績が悪かろうとよかろうと、どうでもよい。
毎日机に向かうかどうかも、息子の判断事項である。
判断に必要な情報も私の知る限りは伝えるが、
やはり最後は息子の問題。
サボってゲーセンに行こうが、
最下位のクラスに甘んじようが、関係ないのだ。

この哲学を得てから、
私の教育費に関する不満は大幅に減少したのである。

親が子供に与える教育は遺伝子の生存本能だ

出オチのような題名。
まさにこの1語に集約されている。

私達夫婦が息子に与える教育は、
要するに現代社会で勝ちやすいと「思われる」コースに
息子をはめ込んで、他の個体よりも少しでも有利な
社会的地位へ息子をハメこもうという

「本能」

遺伝子にはそれ自体が生存するために個体をコントロールする性質がある。
母親が子供に対して示す、愛情はまさにそれだ。
自分が死んでも自分の遺伝子を受け継ぐ個体を残すことがDNAに刻まれている。

お涙頂戴のドラマで、
母親の愛に感動する場面もあるが、
何のことはない、本能に過ぎない。

血の繋がりがない、赤の他人を助ける方が、
実は崇高である。
母親が自分の子供を救うのは当たり前だ。
全く関係ない他人、それも老人を救ったらどうか?
多分感動は少ない。
感動すらも我々は本能に支配されているのかもしれない。

まあ、そんな感じです。
最後繋げようと思ったけど繋がらなかったので、
唐突感があるが、
折角tweetしたので張っておく。

相変わらず文章が上達しない悲しみ。

をはり

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