競争という地獄

心構え

今日のワーママはるラジオも良かった

サウザー師匠なきVoicyだが、
加藤ひろゆき先生と、ワーママはるラジオ、それと霜田晃弘さんの番組はよく聴いている。
最近はAudibleの無料コインを消化するのに精いっぱいで、
なかなかVoicyのアイコンをクリックする時間がない。

今日はたまたまクリックせざるを得ない題名が目に飛び込んできたので、
聴いた次第。

速い大家は5~6年でスピード「勤め人卒業」を成し遂げる

別に誰からに遅いと言われたわけでもない。
しかし、私には心のどこかに焦りがある。

これはアドラー心理学で、
次男によく発現する性格(=ライフスタイル)であるところの
「性急な性格」
であると思う。
次男は長男が生まれながらにして存在することで、
速く追いつきたい、追い越したいと志向して、
効率よく、早く成功したいという性格を形成しがちであるという傾向を言う。

確かに私も兄の存在を意識していたのかもしれない。
兄よりも親から認められたいという生物としての本能がそうさせるのかもしれない。
確かに、動物が2体の子供を選別して、より劣等な個体を殺すことは知られている。

現代においても、
太平洋の島に生きる、比較的原始的な生活をしているある部族には、
若い女性が父親の支援を受けられそうにない子供ができた際に、
その子を産まれてすぐに殺すことが認められているという、
変わった風習を持つ部族がいるらしい。

また、パンダなどはいつも双子を産み、弱い個体の育児を放棄するとのこと。
2体とも生かすために動物園では双子を定期的に交換して、パンダの親に両方とも育てさせるという工夫をしているという話も竹内久美子先生の著書で拝見した。

私にも本能が訴えかけたことで、私のこのような性格を作ってきたと言える。
実際に私は競争意識が強く、若い頃は自分より能力が高い人間に対して、
競争を仕掛けるところがあった。
足が速い相手を見れば、自分も速くなりたいと思い、
その分野で勝てなければ、「俺はあいつよりも勉強ができる」
と、別の分野で勝手に勝負を仕掛けて勝利宣言をして悦に浸っていた。

大学在学中に司法試験に合格する秀才と対峙した時には、
特に悩んだ。
相手はイケメンで親も金持ち。
オマケに司法試験に在学中合格だ。
どうしようもない。
ついつい酒を飲んで自暴自棄になっていたこともあった。

まさに、私は次男に典型的な形質を持っている。
そして司法試験に失敗し、
就職して大学の同級生よりも圧倒的に低い年収を嘆き、
勤め人+アルファ(大家)という方法で、
奴らを見返してやるという具体的な行動に出た。

同級生は私の年収をバカにしていたわけでもない。
別に見下されたこともない。
まさに勝手に私から闘争を仕掛けて、勝利して、悦に浸っていたのである。

そして勤め人としてもある程度成功し、
大家としてもソコソコのキャッシュフローがある今の状態でも、
私よりも不利な家庭環境から成功したふんどし王子や、
多数の若き投資家の成功に歯ぎしりをしている私が心の中に存在する。

さらに勤め人としても起業した若き成功者に苛立ち、
出世していく年下の同僚に対しても劣等感を持っていないと言えば嘘になる。

速い投資家は数年で勤め人を卒業している事例は
枚挙に暇がない。

まさに無間地獄

死後に地獄が存在するのではない。
生の中に地獄をみることができるのである。

まさに私が陥っていた、
いや、おそらくまだ少なからず陥っている無間地獄である。

あらゆる戦線で勝利しようとすれば、
終わりがない。
経営という世界に進出すれば、
前澤さんという天才がいる。
万が一私が前澤友作という天才と並び、追い越したとしても、
その先には孫正義という怪物もいれば、
ビルゲイツという巨人もいる。

この場合には恐らく保有している会社の時価総額であったり、
資産総額という競争が続くであろう。

また、女という競争に進めば、
事実婚で多数の女性を囲い、さらに芸能人を彼女にするという、
前澤友作という巨人と戦うことになるであろう。

また、恋愛工学の門徒たちは世界中の女性と多数の関係を持っており、
そのフィールドでも戦わなければいけない。

不動産の世界でも資産規模が数十億という投資家はザラにいる。
地主階級で人生をスタートした人もいるので、
彼らと競争しなければならない。

何をしても、どこで生きても、
果てしなき競争のうちに人生を終えなければならないだろう。
まさにこの生き方こそ、無間地獄である。

他者は同じ地平を歩む仲間である。

他者との比較はまさに無間地獄。
勝てないからという消極的な理由ではなく、
この競争からは降りなければならない。

競争する相手は「昨日の自分」である。
上下関係ではなく、同じ地平を歩む仲間としてみることで、
この地獄から抜け出すことができる。

自己肯定は結局競争の枠内にとどまっている。
負けたとしても自分は勝っている分野がある。
と、肯定する。
実力が出れば勝てるという競争の意識の裏返しである。

大事なのは自己受容、自らをありのままに認めて、
0点の自分を100点だと肯定するのではなく、
0点の自分を0点だと受容して、10点あげるためにはどうすればいいか?
と、考える、行動することが正しい姿勢である。

あらゆる他者を横の関係に置くことで、
無間地獄から脱しなければならない。

まさに競争をしかけていた私の半生

私の半生はまさに競争をしかける側であった。
ワーママはるラジオでいう競争を仕掛ける人間とは私である。

今、私が手に入れたものは私の心を満たすに十分な水準に達している。
これ以上手に入れなければいけないものはおそらく、ない。
今この手にあるものに感謝して、さらに昨日の自分に+1(プラスイチ)するために努力しようと思った。

人間の悩みは全て対人関係の悩みである。

アドラーはこのように喝破している。
私の競争の半生はまさに、
他人と自分を比較して、他人を超えられないことの悩みであった。

今の私でも悩みを作り出すことはできる。
息子の成績が上がらないこと。
不動産の規模が拡大できないこと。
勤め人としての出世が天井に達していること。
勤め人をサッサと卒業できないこと。

フォロワーが全然増えないこと。

いずれも私が悩みと定義してしまえば悩みであるが、
競争という地獄から降りて、自分との競争に置き換えてしまうことで
全ての悩みが霧散する。

他者との比較に生きることは人間の本能的欲求なのかもしれないが、
人間には知性がある。
本能の存在を無視したり軽視したりしてはいけない。
本能にはすさまじい力がある。
この本能を知性で律することこそが人間のすばらしさである。

まさに恐怖と強欲の本能に対して、
智慧と勇気で戦うことこそが人間の人間たる所以である。

皆さん戦おう、戦う相手は昨日の自分である。

つづく